第29話 男と男の覚悟

第二十九話:優しさの「侮辱」と決着


​ボクシング大会の控え室。私はバンテージを巻き、葉弍はグローブをはめていた。葉弍は、いつものふざけた様子がなく、珍しく沈黙していた。


​「おい、葉弍。迷ってるのか」


​「ああ、迷ってるさ」


葉弍は低い声で言った。


「金は他でも稼げる。だが、あいつはここで負けたら、すべてを失う。俺が負けてやれば、あいつは奥さんとよりを戻せる。それが、俺にできる一番面倒くさくない優しさじゃねぇか?」


​その時、ダニエルが控え室のドアを開けて入ってきた。彼は、私たちの葛藤をすべて見抜いていたようだ。


​「妙なこと考えてないだろうな」


ダニエルは言った。


「俺に勝ちを譲ったほうがいいんじゃないかとか、思ってるんじゃないだろうな」


​葉弍はハッとして顔を上げた。


​「そんなものは優しさでも何でもない」


ダニエルは続ける。


「男と男がリングの上で戦うんだ。ボクシングは喧嘩じゃねぇんだ、互いの努力の結晶を命懸けでぶつけ合う競技なんだ。相手の事情なんて関係ないんだ」


​ダニエルは、私と葉弍をまっすぐ見た。


​「リングの上では、せいせい堂々と戦おう」


​そう言い残し、ダニエルは部屋を出ていった。葉弍は、深く息を吐き、真剣な顔でグローブを握り直した。


​「ちぇ。面倒くさいことを言いやがる。わかったよ、ダニエル。俺は、真剣に、お前を倒す」


​試合は、準決勝で葉弍とダニエルの対戦となった。


​ゴングが鳴る。


​普段は卑怯な手を好み、ふざけて戦う葉弍が、この時ばかりは真剣な表情で、真面目に構えていた。


​ダニエルは、家族への愛を力に変え、先手必勝とばかりにストレートを打ってきた。しかし、ボクシング経験の少ないダニエルの拳は、裏社会の賞金稼ぎである葉弍の能力を遥かに下回っていた。


​葉弍は、まるでスローモーションであるかのように、その拳を容易に避けた。


​ダニエルは驚愕し、何度も拳を振るうが、葉弍は全て回避する。


​観客席から、ダニエルの息子が大声で「パパ、がんばれ!」と応援する声が聞こえた。


​その無邪気な声が、葉弍の心に再び迷いを呼んだ。


​「ちぇ……」


​葉弍は、攻撃の手を止めて、一瞬立ち止まってしまう。

​その隙を見逃さず、ダニエルの渾身のパンチが、葉弍の顔面に直撃した。


​ドスッ!


​葉弍の体が大きく揺らぐ。しかし、彼は痛みを感じながらも、攻撃してこない葉弍に対し、ダニエルは違和感を持った。


​ダニエルはマウスピースを吐き出した。


​「迷うな! 葉弍!お前のやっていることは優しさではなく、侮辱だ! そんなことで俺が勝っても、惨めになるだけだ!」


​その叫びが、葉弍の迷いを打ち破った。


​「くそっ……面倒くさい」


​葉弍は、ダニエルの真剣な覚悟を理解し、真剣さを取り戻して再び構えた。彼の茶色い瞳に、プロの冷徹さが戻った。


​ダニエルは最後の力を振り絞り、フックを打ってきた。


​そのフックの軌道が、葉弍の完璧なカウンターを生んだ。


​葉弍のストレートがダニエルの顔面に叩き込まれ、続いてフック、そして連打。


​ドスッ!ドスッ!


​ダニエルは、家族への愛という重すぎる荷物を背負いすぎたまま、マットに倒れ込んだ。


レフェリーがカウントを取るがギリギリで立ち上がり向かってくる。


それをまたストレートで殴る。


ダニエルは意識が朦朧とする中息子の名前や元妻の名前を呟く。


「ミゲル...パパ...勝つからな...。アイラ...」


ヨロヨロとこちらに向かってくるダニエルに葉弍は再びストレートをうつ。


ダニエルが再び倒れてる


「ミゲル...アイ...ラ...。」


​レフェリーがカウントを取り、試合は葉弍の勝利で幕を閉じた。



​担架で運ばれたダニエルは、控え室で目を覚ました。


​そこには、やはり怒り心頭の元義父が立っていた。


​「見ろ!やはりお前のような男では無理だったんだ!賞金も得られず、娘と孫を不幸にするだけだ!」


​元義父は、ダニエルの息子に向き直った。


​「さあ、ミゲル。向こうでおじいちゃんと、お母さんと3人で暮らそう。あいつはもう終わりだ」


​息子は、ダニエルを見て動かない。


​元義父は、諦めたように控え室を出たが、去り際に息子に向かって、声に少しの優しさを滲ませた。


​「いつでも来いよ。おじいちゃんたちは待ってるからな」


​元義父が去った後、ダニエルは息子に語りかけた。


​「パパは負けた。おじいちゃんの言う通り、お母さんのところへ行きなさい」


​息子は嫌だと首を振った。


​ダニエルは何度も諭したが、息子は「嫌だ!パパと一緒にいる!」と泣き出した。


​その姿を見たダニエルは、賞金を失った絶望よりも、息子が自分を選んでくれた愛に涙を流し、息子を強く抱き寄せた。


​その流れを、控え室のドアの影から見ていた葉弍は、声をかけようと一歩踏み出した。


​しかし、私の黒いスーツを着た手が、葉弍の肩を掴んで、動きを止めた。


​「やめろ、葉弍」


私は言った。


​「ちぇ……」


葉弍は振り向いた。


「何か声をかけてやらないと、惨めだろ」


​「違う」


私はタバコの煙を吐き出した。


​「勝者が敗者にかける言葉なんかねぇよ。惨めになるだけだ。あの親子が今、交換している感情は、私の優しさの探求だ。アンタや私の金や暴力は関係ない。あれは、『すべてを失っても、なお残る愛』という、最も面倒くさくて、最も脆い優しさの標本だ」



​私は、ダニエルの敗北の中に、最も面倒くさくない優しさのヒントを見つけたのだった。

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