第28話 過酷な減量



​私は受付の椅子に座り、タバコの煙を天井に向けて吐き出した。


​「ちぇ。面倒くさい」


​私の頭の中には、次の対戦相手のことではなく、ダニエル親子のことがあった。


​もし、私がこのボクシング大会で優勝して賞金を手に入れたら、ダニエルは元妻とよりを戻すための最後の手段を失うことになる。


ダニエルにとっての「優しさ」は、この大会の賞金と、息子との生活がかかっている。


​「私が優勝して金を稼ぐのは、最も効率的な行動だ。だが、それは、ダニエルの優しさの標本を、Mr.ゼロがゼニクレマンにしたように、半殺しにするのと同じではないのか?」


​私は、自分が優勝することで、ダニエルという「優しさの探求のヒント」を壊してしまうという、新たな矛盾に直面していた。


​同じ頃、外へ走りに行ったはずの葉弍は、より効率的な減量方法を考え、会場近くのサウナへと向かっていた。


​「走るなんて面倒くせぇ!サウナで一気に汗をかいて、体重を落とすのが一番効率的だ!」 葉弍は言った。


​葉弍がサウナのドアを開けると、そこには先に減量中のダニエルの姿があった。


​サウナの熱気の中、ダニエルの隣には、5歳の息子も座っていた。息子はすぐに汗だくになり、暑そうにしていた。


​「パパ、あつい……」息子は言った。


​ダニエルは、サウナの熱気で真っ赤になった顔で、優しく息子に声をかけた。


​「ごめんな。パパ、すぐに体重を落とさないと、お母さんとまた一緒に住めないんだ。ほら、これで外のゲーム台で遊んでろ」


​ダニエルは息子に小銭を渡し、外に出るように促した。息子は「わかった」と言ってサウナを出ていった。


​葉弍は、ダニエルの「家族のために体を張る献身」を見て、複雑な気持ちになった。自分の「金のため」という目的が、ダニエルの「愛のため」という目的とぶつかることに、言いようのない面倒くささを感じていた。


​息子はサウナを出た後、ゲームをせず、ただ休憩スペースの椅子に座っていた。


​それに気づいた、サウナの店員のおばさんが、心配そうに声をかけた。


​「坊や、パパはどうしたの?」


​「パパは、お母さんとまた一緒に住むために、体重を落としてるんだ」


息子は言った。


​おばさんは、ダニエルがまだ戻ってきそうもないと察し、自販機でジュースを買った。


​「これ飲みな。おばちゃんの奢りだよ。パパがんばってるんだね」


​息子はお礼を言ってジュースを受け取った。店員のおばさんの、見返りを求めない「優しさ」だ。


​しかし、しばらく待ってもダニエルが出てこないため、息子は心配になり、もう一度サウナのドアを開けた。


​「パパ、僕もう1回入るよ!」


​息子が声をかけた瞬間、隣に座っていた葉弍がダニエルに声をかけた。


​「おい、ダニエル。息子が迎えに来たぞ」


​ダニエルは返事をしなかった。そして、そのままドサリと横に倒れた。


​「ちぇ!おい、ダニエル!」


​葉弍は慌ててダニエルを抱え上げ、サウナの外へと連れ出した。葉弍は、金も賞金も関係のない、ダニエルの命の危機に直面し、全力で介抱した。


​幸い、熱中症で気を失っただけで、ダニエルはすぐに意識を取り戻した。


​「悪い、葉弍さん……」


ダニエルは弱々しく言った。


「焦りすぎたみたいだ」


​「焦るなよ!死んだら金も家族も全部パーだぞ!この面倒くさい旅が、もっと面倒になるだろ!」


葉弍は、自分の「効率」が、実はダニエルの命を優先することだと気付いた。


​葉弍はダニエルを支え、二人で会場へと戻った。


​時間ギリギリで、二人は再び体重計に乗った。


​「よし!葉弍選手、クリア!」


​「ダニエル選手、クリア!」


​二人は、ギリギリで計量を突破した。


​私は、葉弍がダニエルと支え合いながら戻ってきた姿を見て、タバコを深く吸い込んだ。


​「ちぇ。面倒くさいことになり始めたな」


​私の優しさの探求と、葉弍の金への執着が、ダニエルの「愛」という最も複雑な感情に、深く絡み合い始めたのだ。

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