第1話 優しさは義務なのか



ポケットの中でチョコをカチャカチャ鳴らしながら、都心のターミナル駅前に立っていた。マスクはニッコリ。


​目の前を、急ぎ足のサラリーマンや、スマホを見ながら歩く学生が行き交っている。


​「優しさ、か。見つけるの、超面倒くさいな」


​彼は独り言を呟いた。通行人は、ニッコリ笑顔の銀色マスクが勝手に喋っていることに、ギョッとしたり、見慣れない変な人だと無視したりした。


​彼はまず、優しさの定義を確立しようと考えた。おばあさんの件から推測するに、優しさとは「困っている人を助ける行為」だろう。


​その時、目の前で、小さな子供が派手に転んだ。


​「うわぁ!」


​泣き声を上げ、膝を擦りむいた子供の横を、何人もの大人が足早に通り過ぎていく。


​「チャンスだ」


​面倒くさいと思いながらも、優しさの標本集めのため、子供に近づいた。


​「おい、大丈夫か?」


彼はスーツに似合わない低いトーンのタメ口で尋ねた。


​子供は、目の前のピカピカの銀色マッチョスーツに一瞬怯えたが、膝の痛さで再び泣き出した。


​面倒くさいながらもポケットからハンカチ(無地でシワだらけ)を取り出し、子供の膝にそっと当てた。これは彼が持ち歩いている中で、最も「優しそう」なアイテムだった。


​「これでよし。お前の困った状況は解決した。これは優しさだ」


彼は淡々と宣言した。


​子供は泣き止み、腫れた膝を見つめた。そして、顔を見上げた。


​「……ありがとう」


​「礼には及ばんよ」


​この言葉で優しさの定義が一つ確定したと思った。しかし、子供はさらに続けた。


​「でも、大人はみんな、困っている子は助けなきゃいけないんだよね?」


​硬直した。ニッコリとしたマスクの下で、思考が停止した。


​「なんだそれ。義務?」


彼は低い声で問うた。


​子供は純粋な目で頷いた。


​「そうだよ、先生が言ってた。大人は子供を守る義務があるって。お兄さんが助けてくれたのも、大人としての義務でしょ?」


​義務。


​優しさは、見返りのない自発的な行為ではなく、社会的な強制力を持つ義務なのか?


​肩から力が抜けた。せっかく行動したのに、「優しさ」ではなく「義務」という、一番面倒くさいカテゴリに分類されてしまった。


​「ああ、そうか。面倒くさいな」彼は心底つまらなそうに言った。


「俺はただの無職で、大人としての義務なんて一つも果たしていないぞ」


​彼はハンカチを子供の膝に残したまま、すぐにその場を立ち去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る