アホライダーの冒険
ばにゃ
第0話
アスファルトの上を、一人の男が歩いていた。
男は全身を覆う黒いスーツに、銀色に光る筋肉質なプロテクターを装着している。顔全体を覆うマスクも銀色で、赤く丸い目。そして、何よりも特徴的なのは、そのマスクの口元に固定された、嘘のようなニッコリとした笑顔だ。
その日、日差しは強く、アスファルトからはゆらゆらと陽炎が立っていた。普通ならこんな格好で歩くはずがない。だが、男は気にも留めない。
なぜなら、このスーツはもう脱げないし、そもそも脱ごうと努力することすら、彼にとってはあまりにも面倒くさすぎたからだ。
「どうとでもなる」
それが彼の口癖であり、人生の哲学だった。このクソ暑い銀の筋肉スーツの中でも、彼にとっては「どうとでもなる」ことの一つだった。
彼はただ、散歩をしていた。目的はない。無職だから時間だけは豊富にある。
信号を一つ渡り、住宅街の角を曲がったとき、視界の隅に動きがあった。
小さなスーパーの前で、よろよろとしたおばあさんが、重すぎるダンボールを運ぶのに手こずっていた。ダンボールは今にも地面に落ちそうで、おばあさんは
「おやまあ、おやまあ」
と困った声を上げている。
男は立ち止まらなかった。
「どうとでもなる」
彼はそう判断した。ダンボールが落ちたところで、おばあさんが少し怪我をしたところで、世界にとっては取るに足らない出来事だ。
面倒くさい。スーツの銀の腹筋が反射する光を浴びながら、男はそのままおばあさんの横を通り過ぎた。マスクは、相変わらずニッコリと笑っている。
「ちょっと、そこの兄さん!」
背後から、年齢に不釣り合いなほど強く、張りのある声が飛んできた。
男は足を止めた。面倒くさい。だが、無視して歩き続けるのも、それはそれでエネルギーを使う。彼はゆっくりと振り返った。銀のマスクは、まだニッコリと笑っている。
「あんた、その派手な格好で、人助けの一つもしないのかい?」
おばあさんはダンボールを抱えたまま、鋭い眼差しで男を見つめた。
そして、その一言が、彼のどうとでもなる人生に、初めて「どうとでもならない」違和感を生み出した。
「優しさとか、ないの?」
男はマスクの下で、わずかに首を傾げた。
優しさ? それは、逆上がりの完璧さや、ナイフとフォークの難解な作法のような、何か具体的な「技術」なのだろうか? それとも、ただの面倒くさい感情の名前なのだろうか?
「……優しさ、?」
ニッコリと笑うマスクが、戸惑いを表現しているように見えたのは、彼自身だけだったかもしれない。
「優しさ?そんなものはない」
彼はあっさりと言い放った。感情の起伏はゼロだ。もちろん、マスクはニッコリと笑ったままだ。
「私が知っているのは、逆上がりの完璧なやり方と、ナイフとフォークのどうでもいい作法の違いだけだ。優しさは、そのどちらにも該当しない」
そう言い捨てると、男は再び背を向けた。「どうとでもなる」と頭の中で唱えながら、今度こそこの面倒な状況から離脱しようと、歩き始めた。
しかし、一歩、二歩と進むたびに、あの「優しさとかないの?」という問いが、銀色の筋肉アーマーの下の彼の脳内で、消えないゴミのように残り続けた。
(面倒くさい。だが、なぜこの問いだけは「どうとでもなる」と思えない?)
数メートル歩いたところで、男はため息をついた。
マスクの笑顔がさらに深く歪んだように見えた。
「面倒くさい……」
彼はゆっくりと引き返し、おばあさんの前に立った。
「わかった。優しさというものが何であるか、私には理解できん。しかし、お前の言う『優しさとかないの?』という問答が続くのは、もっと面倒くさい」
彼はそう宣言すると、重いダンボールを軽々と持ち上げた。さすが逆上がりが得意な男である。
「どこまで運べばいい」
おばあさんは目を丸くした後、嬉しそうに笑った。
「ああ、助かるよ!向かいのマンションの二階まででいいんだよ」
男は、銀色のマッチョボディでダンボールを抱え、ひょいひょいと階段を上がった。その間、一度も「優しさ」について考えることはなかった。ただ、この面倒を早く終わらせたい、それだけだ。
荷物を置き終え、男がマンションから出てきたとき、おばあさんが小走りで追いかけてきた。
「本当にありがとうね!あんたは見た目はちょっと変だけど、本当に優しいね」
「私は優しくない。ただ面倒な状況を終わらせたかっただけだ」男は訂正した。
「まあ、固いこと言わずに!」
おばあさんはそう言うと、持っていた包み紙を彼に差し出した。
「これ、お礼だよ。熱中症予防の、チョコレート。美味しいよ」
男は受け取った。手のひらに乗った、食欲をそそる小さな茶色い包み。しかし、彼のマスクの口元は、常にニッコリと固定されたままだ。開口部はどこにもない。
「……」
男は、このスーツを着てからというもの、水分も食事も取らなくても死ななくなった。
体内のシステムがどうなったのかは知らない。調べるのが面倒くさかったからだ。だが、物理的に、彼はこのチョコを食べることはできない。
彼は手のひらのチョコを見た。
この食えもしないチョコが、優しさというものから生まれた「成果」なのだろうか?
自分の肉体を無視して与えられた、食えもしないしょうもないもの。
男は、初めて優しさというものが、いかに不合理で、非実用的で、そして面倒くさいものかを実感した。
「行く。」
男はポケットにそのチョコを仕舞い込んだ。優しさが何かわからないうちは、このチョコを優しさの標本として持ち歩くことにした。
こうして、銀色の筋肉アーマーとニッコリ笑顔のマスクを装着した、目的のない無職の男の旅が、現代日本で始まった。
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