第16話 勇者パーティ、ダンジョン深層で立ち往生する
「……できたよ。目を開けてごらん」
静まり返った店内に、俺の静かな声が響いた。
作業台の前で、ギュッと目を瞑って震えていた魔族の少女――リリスが、恐る恐る瞼を持ち上げる。
彼女の手に握らされていた鏡の中には、以前とは違う、けれど懐かしい自分の顔が映っていた。
額の右側にあった、無惨に折れてギザギザになっていた角の断面。
そこには今、透き通るような漆黒の輝きを放つ、立派な一本角が再生していた。
「あ……」
リリスは信じられないといった様子で、震える指先で角に触れた。
冷たくて硬い感触。
けれど、根元からはドクンドクンと温かい魔力が流れ込んでくるのが分かる。
それは、亡き父が命を懸けて守ってくれた記憶と、目の前の修理屋の優しさが融合した、新たな命の鼓動だった。
「ただくっつけただけじゃない。成長期に合わせて角も伸びるように、根元の組織を活性化させておいた。それと、少しだけ防護魔法もかけておいたから、転んでも折れないよ」
俺が布巾で手を拭きながら言うと、リリスの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「う、うぅ……! お兄ちゃん、ありがとう……! パパの角、直った……!」
「ああ。大事にしてやりな」
リリスは俺の腰に抱きつき、子供のように泣きじゃくった。
魔族だろうが人間だろうが、親を思う子の気持ちに変わりはない。
俺は彼女の頭を、少しぎこちなく撫でてやった。
「……ふん。良い仕事をしたな、主よ」
一部始終を見守っていたガラハドさんが、腕組みをしたまま頷いた。
その目には、いつもの鋭い剣気はなく、孫を見るような穏やかな色が宿っている。
「魔族の角は、魔力の源であり、誇りの象徴じゃ。それを失えば、魔族は生きる気力すら失うと言われておる。お主は、彼女の命そのものを救ったのじゃよ」
「大袈裟ですよ。俺はただ、悲しそうな顔をしていたから直しただけです」
俺は照れ隠しに鼻をこすった。
リリスが泣き止むのを待って、俺は温かいミルクを出してやった。
「さて、リリス。落ち着いたら話せるか? 君がどうして一人でこんなところまで来たのか。そして、君を追ってきている連中は何者なのか」
俺の問いに、リリスはビクリと肩を震わせ、ミルクの入ったマグカップを両手で強く握りしめた。
そして、小さな声で語り始めた。
「……魔王様が、変わったの」
「変わった?」
「うん。前の魔王様は、人間との無益な争いはやめようって言ってた。でも、新しい幹部の『黒騎士』が反乱を起こして……平和派の魔族をみんな殺しちゃったの」
リリスの父は、その平和派の将軍だったらしい。
黒騎士の軍勢から娘を逃がすために殿(しんがり)を務め、その際に角が折れてしまったのだという。
「私は逃げて、逃げて……パパが言ってた『東の果てには、どんな種族も受け入れてくれる優しい村がある』っていう噂を信じて……」
「なるほど。それがこのグリーンホロウだったわけか」
話が繋がった。
そして、ガラハドさんが感じ取っていた西からの不穏な気配の正体も。
それは勇者パーティだけではない。魔族の追っ手も混じっている可能性が高い。
「安心しろ、リリス。この店にいる限り、誰も君には指一本触れさせない」
「うむ。ここには最強の『壁』と、最強の『用心棒』、そして何より最強の『修理屋』がおるからの」
俺たちの言葉に、リリスはようやく安堵の表情を浮かべ、ミルクを飲み干した。
その寝顔は、久しぶりに安心して眠れた子供のそれだった。
* * *
一方その頃。
グリーンホロウから西へ五キロ。
「魔の森」と呼ばれる原生林の入り口に、ボロボロの三人組が立っていた。
勇者ブレイド、賢者ソフィア、聖女アリア。
かつて王都で歓声を浴びていた栄光の姿は見る影もない。
ブレイドの革鎧は泥と脂にまみれ、ソフィアの眼鏡は片方のレンズにヒビが入り、アリアの聖服は裾が破れて短くなっている。
「……ここを抜ければ、ルークの村だ」
ブレイドは、充血した目で森の奥を睨みつけた。
空腹で胃がキリキリと痛む。
喉が渇いて声が掠れる。
だが、それ以上に彼のプライドが悲鳴を上げていた。
「おい、ブレイド。本当にこのままでいいのか?」
ソフィアが不安げに声をかけた。
「何がだ」
「今の私たちの姿です。まるで乞食のようではありませんか。こんな無様な格好でルークに会って、彼が私たちの言うことを聞くでしょうか? 足元を見られるのではありませんか?」
その言葉は、ブレイドの一番痛いところを突いていた。
彼は勇者だ。
ルークは雑用係だ。
再会の時には、圧倒的な「格の違い」を見せつけ、慈悲深く許してやるというスタンスでなければならない。
なのに、今のままでは逆に「施しを受ける側」になってしまう。
それは、彼のちっぽけな自尊心が許さなかった。
「……クソッ! わかっている!」
ブレイドは地面を蹴った。
その時、森の入り口にある古い看板が目に入った。
『立ち入り注意:グリーンホロウ地下迷宮。推奨ランクC』
「地下迷宮……ダンジョンか」
ブレイドの目が怪しく光った。
推奨ランクC。
彼らが普段攻略していたSランクやAランクのダンジョンに比べれば、子供の遊び場のような難易度だ。
「そうだ……ここだ!」
ブレイドは狂喜したように叫んだ。
「このダンジョンを攻略する! 中にある宝箱から金目の物を手に入れ、装備を整え、ついでにルークへの手土産にするんだ!」
「えっ? い、今からですか? 体力も魔力も限界に近いのに……」
「馬鹿を言うなアリア! 相手はCランクだぞ? 腐っても俺たちは勇者パーティだ。素手でも勝てる相手だ!」
空腹と焦りで判断力が鈍っていた彼らは、それが致命的な選択ミスであることに気づけなかった。
「Cランク」というのは、あくまで「万全の装備と状態にある一般の冒険者」にとっての基準だ。
今の彼らは、武器はナマクラ、防具は紙同然、体力は一般人以下。
実質的な戦力は、駆け出しのEランクにも劣る状態だったのだ。
「行くぞ! さっさとクリアして、ルークに美味い飯を作らせるんだ!」
ブレイドは強引に二人を引き連れ、ダンジョンの入り口である洞窟へと足を踏み入れた。
* * *
ダンジョンの中は、湿った冷気に満ちていた。
松明の用意すらなかった彼らは、ソフィアの残り少ない魔力を使って小さな灯火(ライト)を点け、薄暗い通路を進んでいく。
「……なんだ、このジメジメした空気は。不快だ」
ブレイドが文句を言う。
以前なら、ルークが「環境調整の魔道具」を使って、周囲の湿度や温度を快適に保ってくれていた。
悪臭漂う下水道ですら、ルークのそばにいれば花の香りがした(消臭ポットを持たされていたからだが)。
そんな「当たり前」の快適さが失われた今、ダンジョンの環境ストレスは彼らの精神をガリガリと削っていく。
「ギャァァッ!」
突然、暗闇から奇声が上がった。
現れたのは、三匹の『ケーブ・ゴブリン』。
小鬼のような下級モンスターだ。
「フン、雑魚が!」
ブレイドは腰の剣(錆びついて鞘から抜けないため、鞘ごと装備している)を構え、殴りかかった。
ドゴッ!
鞘がゴブリンの頭を直撃する。
だが、ゴブリンは倒れない。
逆に「イテェ!」と怒り出し、錆びたナイフで反撃してきた。
「なっ!? 倒れないだと!?」
「ブレイド、打撃だけでは致命傷になりません! 斬ってください!」
「抜けないんだよ!!」
ブレイドは必死に鞘を振り回すが、重いだけで切れ味のない鉄の棒では、すばしっこいゴブリンを捉えきれない。
一匹がブレイドの足に噛みつき、もう一匹がアリアに向かって飛びかかる。
「きゃあぁぁ! こないでぇ!」
「アリア! くっ、ファイアアロー!」
ソフィアが魔法を放つが、杖の不調で照準が定まらず、炎の矢はゴブリンの横をすり抜けて壁に当たっただけだった。
ゴブリンたちは「ケケケッ」と嘲笑い、彼らを完全になめてかかってくる。
「ふざけるな……! 俺は勇者だぞ! 貴様らのような汚い魔物に……!」
ブレイドは屈辱に顔を真っ赤にしながら、泥臭い乱闘を繰り広げた。
最後はなりふり構わず、落ちていた石でゴブリンの頭を何度も殴りつけ、ようやく沈黙させた。
「はぁ……はぁ……」
戦闘終了後、三人は肩で息をしていた。
たかがゴブリン三匹。
それに、十分以上もかかってしまった。
アリアの服はさらに破れ、ブレイドは腕を噛まれて血を流している。
「……回復を」
「無理です。魔力が……もう、すっからかんですわ」
アリアが首を振る。
絶望的な空気が流れる。
だが、ここで引き返すという選択肢は、ブレイドの辞書にはなかった。
「進むぞ。ここまで来て引き返せるか。宝箱さえ見つかれば……ポーションがあるはずだ」
それはギャンブル狂の思考だった。
負けを取り戻すために、さらに大きなリスクを背負い込む。
彼らはズルズルとダンジョンの奥へと進んでいった。
そして、悲劇は起きた。
地下三階層。
「Cランクダンジョン」としては深層にあたるエリアだ。
彼らがたどり着いたのは、出口のない大広間だった。
中央には、古びた宝箱が一つ、ポツンと置かれている。
「あった……! 宝箱だ!」
ブレイドが目を輝かせて駆け寄る。
ソフィアが「待って、罠かも!」と叫ぶが、彼の耳には届かない。
ブレイドが宝箱を開けた、その瞬間。
ガシャンッ!!
背後の扉が重い音を立てて落下し、退路が断たれた。
同時に、広場の四隅にある石像が動き出す。
『ガーゴイル』。
石の皮膚を持つ飛行魔物だ。
物理攻撃に強く、魔法防御も高い。今の彼らにとって、最悪の相性の相手だった。
「わ、罠か……!」
「ブレイド、後ろ! 扉が開きません!」
アリアが扉を叩くが、ビクともしない。
ガーゴイルたちが、ギギギ……と不気味な音を立てて包囲網を縮めてくる。
「くそっ、やるしかないのか!」
ブレイドは剣を構えるが、手足が震えていた。
空腹、疲労、怪我。
そして何より、自分たちが「弱い」という事実を突きつけられた恐怖。
ガーゴイルが襲いかかる。
石の爪がブレイドの革鎧を引き裂く。
ソフィアの障壁魔法は、紙のように破られる。
アリアの祈りは届かない。
「ぐあぁぁぁっ!」
「いやぁぁっ!」
一方的な蹂躙だった。
殺されはしなかった。
ガーゴイルたちは、彼らを「餌」として甚振るように、じわじわと追い詰めていく。
彼らは部屋の隅に固まり、盾を構えることしかできなかった。
数十分後。
ガーゴイルたちは、動かなくなった獲物に興味を失ったのか、元の台座に戻って石像へと戻った。
これはこのダンジョンのギミックで、「侵入者を一定時間痛めつけたら休止モードに入る」というものだったらしい。
だが、扉は閉ざされたままだ。
「…………」
暗闇の中、三人は折り重なるように倒れていた。
生きてはいる。
だが、心は死んでいた。
「出られない……」
ソフィアが掠れた声で呟く。
水もない。食料もない。
宝箱の中身は、ただの「空っぽ」だった。
これが、彼らの現実だった。
「寒い……お腹すいた……」
アリアがうわ言のように繰り返す。
ブレイドは、何も言えなかった。
ただ、鞘ごとひしゃげた剣を抱きしめ、暗い天井を見上げるだけ。
ここが、彼らの終着点なのか。
王都の英雄と呼ばれた彼らが、こんな辺境の、名もないダンジョンの底で、誰にも知られずに朽ち果てていくのか。
「……ルーク」
ブレイドの口から、またその名前が漏れた。
今度は命令口調ではなかった。
懇願。
哀願。
幼児が母親を求めるような、無力な響き。
「助けてくれ……ルーク……」
その声は、あまりにも小さく、冷たい石壁に吸い込まれて消えた。
* * *
グリーンホロウ。
俺の店では、平和な夕食の時間が流れていた。
今日のメニューは、リリスの快気祝いを兼ねた「特製クリームシチュー」だ。
トラクターで収穫したばかりの野菜と、村長から貰った新鮮な鶏肉、そして『炎熱石』で調整したカマドの火加減が、最高のコクを生み出している。
「んー! 美味しい! お兄ちゃん、料理も上手なんだね!」
リリスが口の周りを白くしながら、満面の笑みでシチューを頬張る。
角が直った彼女は、すっかり元気を取り戻していた。
「修理屋だからな。食材の『一番美味しい状態』を引き出すのも、ある意味で修理みたいなもんだ」
「わけがわからぬ理屈じゃが、美味いものは美味い」
ガラハドさんも、パンをシチューに浸しながら満足げに頷く。
温かい部屋。
美味しい食事。
楽しい会話。
ここには、幸福のすべてがあった。
その時。
ふと、ガラハドさんの手が止まった。
彼はスプーンを置き、西の方角――壁の向こうをじっと見つめた。
「……どうしました?」
「いや……妙な気配が消えた」
「消えた?」
「うむ。昨日から感じていた、あの不快な勇者の気配じゃ。村に近づいてきておったはずだが……フツリと途絶えた。まるで、地の中に飲み込まれたようにな」
地の中。
俺の脳裏に、村の近くにある古びたダンジョンのことがよぎった。
まさかとは思うが。
いや、あのプライドの塊みたいなブレイドなら、やりかねない。
「……遭難したか、あるいは自滅したか」
「放っておきましょう。自業自得です」
俺はシチューの残りを口に運んだ。
同情心がないわけではない。
だが、俺には守るべき今の生活がある。
彼らが勝手に穴に落ちたのなら、それは彼らが選んだ道だ。
「……でも、リリスを追っている『黒騎士』の気配は、まだ消えておらんな」
ガラハドさんの言葉に、リリスの身体が強張った。
「むしろ、近づいてきておる。……明日の朝には、この村に到着するじゃろう」
場の空気が引き締まる。
俺はリリスの震える手を、そっと握った。
「大丈夫だ。黒騎士だろうが魔王軍だろうが、この店のお客様(リリス)に手出しはさせない」
「お兄ちゃん……」
「ガラハドさん、明日は店休日ですね」
「うむ。看板を『貸切』にしておくとしよう」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
勇者パーティがダンジョンの底で震えている間に、グリーンホロウでは、本当の脅威に対する迎撃準備が静かに、しかし確実に進められていた。
「さて、シチューのおかわりはあるぞ! 食べて力をつけよう!」
「はーい!」
俺たちの夜は、まだ温かい。
だが、外の闇は深さを増している。
明日、この村に訪れるのは、勇者か、魔族か、それとも――。
(第16話 終わり)
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