章5.海

すすきが黄色い棚田の向こうに波をうつ。

山が少しだけ赤や黄色の模様を飾りだしていた。


俺は原付で小川の小道を抜けていった。


さびれた神社の裏手にある、あいつの住むあばら家に原付を止めた。


ガラスの引き戸は相変わらず素直にいう事を聞いてくれない。


いつか直さないとな。

玄関を見ると白いサンダルはなかった。


なんか、買いにでも行ったのかね。



軋む廊下を進むのにつられてサッシのガラスがカタカタ揺れる。


黄ばんだ畳にリュックを降ろし、棚にもたれて座った。


だるま。ふすま。干した洗濯物。

変に居心地の良い部屋は、かたかたと風の音が鳴っていた。


ぼんやりとテレビの上のぬいぐるみを眺めていたら、ちゃぶ台に置いた携帯が鳴った。


あいつからだった。



海の音がする。



「おぅ、どうした?」


「病院いっとってん」


「急だな、熱?」


電話の向こうで舟のエンジン音が鳴る。


何か言っていたが、聞こえてないのを察したか

音が遠のくまで待っていた。


「…、そやな。お熱や。」


声が少しうわずっていた。


阿保でも風邪ひくんだな、と俺は笑った。


「迎えに行こうか?」


「ええねん、近くおるし。」


「じゃぁ帰って来いよ。今、来てる。」


「ふーん…。」


またこいつは…。俺は置いた鞄を拾い、ちゃぶ台の鍵をつかんだ。


「今行くよ、バス停近く?」


「んー…と。あ、猫。」


はっきりしない態度に俺は、気づかないうちに貧乏ゆすりをしていた。


「あぁ、えぇ風やね、…夏どこいってんやろなぁ。」


あー、はいはい。

立ち上がり、玄関に向かう。


とりあえず向かおう、島の中なんて湾沿いに走ればすぐ出くわす。



ただ、何故か俺は、出会った頃のあいつの表情が浮かんでいた。




「…なぁ、死んだら人ってどこに行くんやろ。」



玄関に向かう足が止まった。


「…どこでもいいよ。どこにいんの。」


俺の語圧が少し強くなった。


家のきしみが鳴らないと、この家はどこまでも静かだと気づいた。



「…あかんかってんな。」


電話口から、波音がかすかに鳴っていた。


口から漏れ出る震えた声は、もっとかすかだった。



「…うち、汚れとるから、あかんやってんか。」



なに言ってんだよ。


「きっと熱があったんやろな、ふふっ…熱下がったわ。」


どういうことだよ。



「少しだけ、道が重なってしもたんやろなぁ。」



こめかみに力が入る。


どうだっていいよ、そんな事。


「だから…、今から行くから。待ってて。」


いつの間にか速くなっていた呼吸を抑える。

俺は静かに喋った。


あいつの言いたいことがこぼれない様に。 

崩れないよう、せき止める様に。


「具合悪いなら、桟橋で座ってな。すぐ行くから。」


海鳥が遠くで鳴いていた。



「…うち、あんたとようおれへん。」




背筋が一気に熱を帯びた。


「なんでだよ!」


握りしめた鍵が手に食い込む。


「なんでだよ…。」


他に言葉を忘れてしまった。

何度も言う内に力が遠のき、壁にもたれ、床にずり落ちた。



「ごめんなぁ…。この子は、」


予感に胸がえずき、それ以上は聞きたくなかった。


そんな風に聞くつもりなんて毛頭なかったんだ。




「あの日に、こぼれた事にしたんや。」




背中の血流が逆立った。


「だから、それがなんなんだよ!」




俺は携帯をポケットに突っ込んでガラス戸を叩き開けた。


転がる様に原付に飛び乗って桟橋へ向かう。

曇る視界を袖で擦りながら必死に小道をすり抜けた。


何が駄目なんだよ!


早くなるわけでもないのにハンドルを強く握った。


いいじゃねぇか、そんなもんだろ!


くすんだ瓦屋根、邪魔な灯篭、錆びたカーブミラー。


居た場所なんて知らねぇよ!


お前が誰であろうと、俺が誰であろうと、

そんな事、何の意味があんだよ!


山の黄色と赤と緑。防波堤で区切られた空、淡い雲。


いいじゃねぇか、ここに居れば!



防波堤にぶつかる寸前で原付を放り投げた。

体の力みが抜けて、もつれた足で桟橋へ走った。


意識が顎まで届く余裕もない。歯がカタカタ笑う。


いつもと変わらない微かな潮の満ち引きと赤い橋。


波音がいつもより大きく聞こえた。




波止場は、澄んだ秋空に海鳥だけが飛んでいる。



「どこだよ!」



湾内に声が反響する。


どこに…。


頭蓋の先から声は出ていかない。




どこに…。


ブイの擦れる音と海鳥の声だけが返ってきていた。



湾に吸い込まれる。

俺の体はまだ探すのをやめなかった。

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