二話


 真琴まことさんは、にこっと笑った。その笑顔は昼間と同じように飄々としていて、でもどこか、何かを察したような目をしていた。


「乗る?」

「え?」


 思わず、素の声が出た。頭が追いつく前に口が動いてしまったみたいだ。


「こんなとこに女の子一人でおったら危ないで。ほら」


 そう言って、真琴まことさんは助手席のドアを少し開けた。中から車内の灯りがふわっと漏れて、私の足元を照らした。


 私は一瞬、迷った。何も知らないこの人に、ついていっていいのだろうか。

 もしかして、誘拐されるんじゃないか───そんな不安が、頭をかすめる。でも、今のこの状況で、他にどうしようもないのも事実だった。夜の海辺に一人でいるよりは、まだマシかもしれない。


「……お願いします」


 そう言って、私は助手席に乗り込んだ。


「素直でよろしい」


 真琴さんが、どこか楽しそうに言った。


 車内に入った瞬間、むわっと煙草の匂いが鼻をついた。思わず口を覆いたくなるほどの強さ。でも、乗せてもらっておいて文句は言えない。耐えろ、私。これは試練だ。でも、正直ちょっと吐きそう。


 エンジンが軽やかに唸り、軽トラはゆっくりと走り出した。車内には、古いバラードのような音楽が流れていた。歌詞は聞き取れなかったけど、どこか懐かしいような、切ないようなメロディだった。私にはその曲の名前も、歌っている人も分からないけど。


「君、名前は? 私は真琴まことっていうねん」


 知ってる。さっき聞いた。でも、それを言うのもなんだか気まずくて、私は素直に名乗った。


小春こはるです」

「小春ちゃん。良い名前やん。かわいらしくて」


 その言い方が、あまりにも慣れていて、ちょっとだけ引っかかった。たぶん、私みたいな年の子には、誰にでもそう言ってるんだろうな。


「……家出やろ?」

「え?」


 また、素の声が出た。


「私の目は誤魔化されへん。なんとなく察しついてたわ。エミさんの店の時から」


 ああ、だからあの時、あんな質問をしようとしてたんだ。今さらながら、納得した。


「どこから来たん? いや待って、当てるわ」


 自分で質問しておいて、自分で答えようとする。よくしゃべる人だなぁ、って思った。


「標準語っぽいから……東京やな。そうやろ?」

「埼玉です」

「おっしぃ。なんや、埼玉かー。東京なら面白かったのに」

「何が面白いか分かりません」


 つい、つんけんな態度を取ってしまった。でも真琴さんは気にする様子もなく、「それもそうやな」と笑っていた。その余裕のある笑みに、ちょっとだけ───安心した自分がいた。


「そんな遠いのに、どうやって帰る気やったん?」


 真琴さんの言葉が、ぐさりと刺さる。さっきまで頭の中でぐるぐる悩んでいたことを、あっさり突かれてしまった。私は苦し紛れに思いついたことを口にする。


「青春18きっぷっていうのがあるらしくて……」

「おー、なつかし! 昔よう乗ったわぁ」


 真琴さんは懐かしそうに笑った。


「でもあれ、五枚セットやから結構するやろ? 一枚の値段は安いねんけどな」

「え、そうなんですか?」

「知らんかったん? はっはっは。詰めの甘さがまさに家出って感じやな」


 その言い方がなんだか悔しくて、思わず口を尖らせてしまった。恥ずかしさと情けなさが混ざって、またもや悪態をつきそうになるけど、ぐっとこらえる。

 真琴さんは、そんな私の様子を見ても、まったく気にしていないようだった。むしろ楽しんでいるようにすら見える。


 車はしばらく走り続け、やがて住宅街に入っていった。

 道幅は狭く、両脇には古びた家々が並んでいる。微かな潮の匂いと、どこからか夕飯の匂いが漂ってきた。なんだか、時間がゆっくり流れているような場所だった。


 そして、車は砂利の空き地に入って停まった。ガリガリとタイヤが砂利を踏む音がやけに大きく響く。

 え、こんなところに?  周りは薄暗くて街灯も少ない。茂みの影からヤクザでも出てきそうな雰囲気に、思わず身構えてしまう。


「ほら、降りるで」

「は、はい」


 真琴さんに促されて、私は警戒しながら助手席のドアを開けた。外に出ると、夏の夜のじめっとした空気が肌に触れる。さっきよりも、さらに静かだった。


 向かったのは、空き地の隣にある木造の二階建ての長屋。横に長くて、一直線に部屋が並んでいる。アパート……というより、昔ながらの集合住宅って感じ。

 外壁は灰色に近いベージュで、ところどころ色が違っていた。たぶん、補修した跡なんだと思う。全体的に年季が入っていて、玄関前の傘立てはさび付いていた。


「あ、その前に」


 玄関の引き戸に手をかけたところで、真琴さんがふいに立ち止まった。その声が、さっきまでの軽やかな調子と違って、少しだけ真面目だった。


「入る前に、親御さんに連絡しい」

「え?」


 思わず、聞き返してしまう。その言葉の意味を、頭ではすぐに理解できなかった。


「え? って、泊まるやろ? こんな時間から埼玉なんて帰られへんし。こんな夜中に中学生外に放り出すのも気分悪いし。親御さんの許可なしに家連れ込むのもあれやし」


 それは……ごもっともだった。時計を見なくても、もう夜が深くなっているのは分かる。電車も、こんな田舎じゃもう動いていないだろうし、仮に動いて大阪まで出れたとしても、そこからは終電になっちゃう。全然帰れる距離じゃない。でも、電話かぁ……


「ちゃんと電話せな。家には入れへんで」


 真琴さんは、そう言って腕を組んだ。その様子は冗談が通じなさそうだ。

 ここで「嫌だ」と言えば、この扉の向こうには入れない。それは、真琴さんの優しさの裏返しだと分かっていた。


「分かりました」


 そう言って、私はポケットに手を入れるふりをした。まるでかのように、自然に。その仕草を見た真琴さんは、満足そうにうなずいた。


「ほな、大家に言ってくるから、その間に電話してきい」

「はい」


 私は軽く会釈して、長屋の裏手へと走った。足音が砂利を踏むたびに、心臓の音が重なって聞こえる。裏手はひっそりとしていて、風が草を揺らす音だけが耳に残った。

 誰もいないのを確認して、私は立ち止まり、深く息を吐いた。そして、ぶつぶつと独り言をつぶやき始めた。


「……うん、うん、ごめんなさい……分かってるって……でも、うん……」


 まるでみたいに。声のトーンも、間の取り方も、それっぽく。自分でも驚くほど自然に演技ができていた。


 ───嘘をついた。

 本当は、携帯なんて持ってきていない。

 持ってきたら、旅先では便利だったに違いない。でも便利だからこそ、きっと私は途中で決意を揺るがせてしまっただろう。お母さんからの連絡が鳴りやまないのも目に見えていた。それが嫌だった。この家出が、ただの反抗期の延長みたいに思われるのが、どうしても悔しかった。


 一日や二日で帰るなんて、絶対にしてやるもんか。そう思って、私は携帯を置いてきた。だから今、私はここで、誰にも届かない電話をしている。これは私の覚悟の表れなんだ。


 長すぎず、でも早すぎない時間を見計らって、私は玄関へと戻った。引き戸の前には、さっきと同じように朗らかな顔をした真琴さんが立っていた。その笑顔が、なんだか少しだけ、胸に刺さる。


「ちゃんと電話した?」

「はい。怒られちゃいましたけど」


 そう言って、私は演技で口をへにゃっとしながら頭を掻いた。なるべく自然に、悟られないように。でも心のどこかで、バレてるんじゃないかという不安もあった。


「そらそうや。でも若い時は、そういう時も必要やと思うで」


 真琴さんは、そう言って笑っていた。どうやら私の発言を信じているようだった。  

 罪悪感は、確かにあった。でもそれよりも先に、自分のずる賢さがうまく働いたという感触が残っていた。大人を騙せた快感のようなものが胸の中で広がっていく。ただそれは、あまり触れてはいけないものだと、なんとなくそう思った。


「ほな気を取り直して。ようこそ、わが家へ」


 真琴さんがそう言って、玄関の引き戸を開けた。ガラガラッと、懐かしい音が鳴る。その音だけで、なんだか昭和のドラマに迷い込んだような気分になった。

 美人なのに、どこか飾らない真琴さん。この古びた長屋が、妙にしっくりくるのは、気のせいじゃないと思った。派手じゃないけど、ちゃんと根を張って生きてる人の匂いがする。


 豆電球ひとつが照らす、細くてちょっと軋む廊下を進む。壁にはところどころポスターの跡みたいな色ムラがあって、年季を感じさせた。途中、トイレの扉があったけど、どう見ても共有のようだった。


 階段を上がると、真琴さんが立ち止まり、振り返って言った。


「ここが私の部屋」

「はぁ」


 そんな自信満々に言われても、どう返せばいいのか分からず、間の抜けた返事しか出てこない。真琴さんは気にする様子もなく、鍵を回して扉を開けた。


 ギィ、と音を立てて開いた扉の向こうには、素朴な空間が広がっていた。

 ワンコンロの小さなキッチンが入り口のすぐ横にあって、奥には四畳半ほどの畳の部屋。畳はところどころ日に焼けて、色がまばらになっている。天井は木目調のプリント板で、少し低め。真ん中には、紐のついた丸い蛍光灯がぶら下がっていた。おばあちゃんの家で見たことがあるような、懐かしいタイプのやつ。その光が、ほんのりと部屋を照らしていて、なんだか落ち着く。


 家具は最小限。小さな座卓と、その横にちょこんと置かれた棚。棚の上には、古びたラジオと目覚まし時計。そして、有名そうな漫画本が何冊か雑に置かれていた。


「まあ狭いとこやけど、くつろいで良いよ」

「はぁ」


 またもや、よく分からない返事をしてしまう。言葉がうまく出てこない。でも、真琴さんは気にするどころか、にやっと笑って言った。


「あ、今、狭いと思ったやろ?」

「いや、そういうわけじゃあ……」

「はっはっは。分かりやすいな、小春ちゃん」


 景気よく笑って、真琴さんはそのまま座卓の前に腰を下ろした。そして、少し考えるように天井を見上げたあと、手をパンと叩いた。


「うーん、風呂の時間はまだちょっと先やし、ご飯にしよか。小春ちゃん、お腹空いたやろ?」

「え、いや、悪いですよ……ただでさえ泊めてもらうのに」

「いや、あかん。私の部屋に入った人は、みんな私の手料理を食う運命さだめやねん」


 どこかで聞いたことあるようなセリフを、真顔で言う。私は思わず笑いそうになったけど、ぐっとこらえた。でも口元が緩んでしまったのは、自分でも分かった。少しずつ、緊張の糸がほぐれていく。


 真琴さんが台所に立った。小さなキッチンはコンロがひとつだけで、調理スペースもほんのわずか。なにか手伝おうとしたけど狭くなるだけなのか、手伝わせてはくれなかった。

 正直、あまり凝った料理ができるような場所には見えなかった。でも、真琴さんは慣れた手つきで、野菜やお肉を手際よく刻んでいく。包丁の音が、トントントンと心地よく響く。


 しばらくすると、ジュウッという音とともに、香ばしい匂いが部屋に広がった。 ソースの甘辛い香りに、思わずお腹が鳴りそうになる。真琴さんは何かをお皿に移したあと、フライパンをさっと洗って、また何かを焼き始めた。その手際の良さに、思わず見入ってしまう。


「出来たで~」


 ほどなくして、真琴さんが二つの皿を持って戻ってきた。卓上に置かれたのは、野菜とお肉がたっぷり入った焼きそば。湯気が立ち上り、ソースの香りが鼻をくすぐる。そして、その上には───が乗っていた。


「私特製の焼きそばや。なかなかうまいんやで。上に乗った目玉焼きが嬉しいポイントやな」

「……」

「? どうしたん?」

「ああ、いや。……目玉焼きって、そんなに珍しいかなって。私の家では、しょっちゅう出てて」


 自分で言って、しまったと思った。失礼なことを言ってしまった気がして、視線を落とす。でも真琴さんはなぜか腕を組んで、うんうんと頷いていた。


「良い親御さんやな」

「え?」


 真琴さんは人差し指を立てて、どこか得意げに言った。


「ええか。やねんで」

「……ちょっと、何言ってるか分かんないです」


 私がそう返すと、真琴さんは「分かってないなぁ」と言いながら、大げさにのけぞった。


「焼きそばでも焼き飯でもそうやけどな、目玉焼き作るには、一回フライパン洗わなあかんのよ。これがもう、めんどい。でも卵って栄養あるやろ? 子供にちゃんと栄養つけてほしいって思て、わざわざ洗って、もう一回焼くんやできっと」


 うんうんと、自分で語りながら頷いている。その姿がちょっとおかしく思う。


「そのひと手間がなぁ。愛情やねんなぁ。一人暮らしせな分からんやろうけどなぁ」


 ふと、家のキッチンを思い出す。お母さんはフライパン二つを使って目玉焼きを作っていたような……


「……でもそれは真琴さんのキッチンが狭いだけだからなんじゃ……」

「……文句言うなら私が食べる」

「あ、ごめんなさいごめんなさい! はい! 愛情! その通りだと思います!」


 思わず両手を合わせて謝ると、真琴さんは「ふふっ」と笑っていた。


「ちょっと元気なったやん」


 そう言われて、思わず手を止めた。なんだか恥ずかしい。あやされてるみたいで、ちょっとムズムズする。


「……いただきます」

「はーい、いただきます」


 二人で「いただきます」と声を揃えて、焼きそばを口に運ぶ。ソースの香りが鼻をくすぐって、思わず笑みがこぼれた。他愛のない話をしながら、箸を動かす。テレビもないのに、部屋の中は不思議とにぎやかだった。


 なんだか、久しぶりだった。誰かと一緒に食べる夕飯。気を張らずに、ただ「美味しいね」って言える時間。焼きそばは、特別な味じゃない。でも普通に美味しかった。そのが、今の私にはとてもありがたかった。


 食べ終わったあと、流石に申し訳なくて、無理やり洗い物を真琴さんから奪った。「ええってええって」と言われたけど、これくらいはさせてほしい。借りっぱなしじゃ気が引ける。


 いつもよりも丁寧に、ひとつひとつのお皿を洗う。水の音、というか生活の音が静かに響いて、なんだか心も少しずつ整っていく気がした。


「そろそろ時間やし、お風呂入ろっか。着替えはあるんやっけ?」

「あぁ、はい。一通りは」


 手を拭きながら答えると、真琴さんは立ち上がって、うーんと大きく伸びをした。


「よし、なら行こか」


 行こか? え、行く? どこに?

 疑問を飲み込んだまま、私は真琴さんのあとをついていった。


 階段を下りて一階の廊下を奥へ進むと、そこには「風呂場」と書かれた木の看板がぶら下がっていた。まさか……トイレだけじゃなくて、お風呂まで共有だったなんて。


「こ、これは……」


 思わず声が漏れる。風呂場の前で呆然と立ち尽くしていると、真琴さんが振り返った。


「どうしたん?」

「え、あー、なんにもないです」


 慌ててごまかすけど、内心はざわざわしていた。まさか、他人とお風呂を共有するなんて思ってもなかった。しかも、誰が入ってくるかも分からないなんて……。


「なんや、裸になんの照れてるんか? いいやん別に。女同士なんやし」


 真琴さんはニヤニヤしながら、からかうように言った。確かに、そうなんだけど…… 今日出会ったばかりの人や、知らない人といきなり裸を見せ合うのは、やっぱり抵抗がある。背中にニキビとかできてないかな……いや、それよりも。


「じゃなくて、男の人も入ってくるんじゃ……」

「あー、大丈夫大丈夫。この時間帯は女の時間帯やから。さすがに男の人は入ってけえへんよ。まあここの暗黙の了解みたいなもんやけど」


 そういうものなのだろうか。時間で分けられてるなんて、まるで旅館みたい。こういう生活もあるんだな、と少し驚きながら、私は恐る恐る脱衣所に足を踏み入れた。


 中に入ると、空気が湿っていて、銭湯みたいな匂いがした。


 脱衣所に入ると、すでに何人かの女性たちがいた。若い人もいれば、おばちゃんもいる。みんなそれぞれのペースで服を脱いだり、髪をまとめたりしていて、なんとなくその空間に流れる空気はゆるやかだった。


「ありゃ、まこっちゃん。その子は?」


 一人の女の人が、私をちらりと見て、真琴さんに声をかけた。


「この子? 小春ちゃんっていうねん。私の新しい妹や!」

「ちがいます」


 即座に否定すると、周りの人たちが「ははっ」と笑った。その笑い声が、なんだかほっとした。誰もそれ以上、詮索してこなかったのも、正直ありがたかった。


「ふー、よいっしょ」


 真琴さんが、ため息まじりに服を脱ぎ始める。

 ……さっきから思ってたけど、真琴さんって、けっこう……


「どしたん? はよ脱ぎよ」

「……」


 視線をそらしながら、私は黙って服を脱ぎ始めた。なんとなく、自分の体を見られるのが恥ずかしくて、背中を丸めてしまう。

 成長したら、私も少しは……いや、今は考えないでおこう。


 お風呂を済ませて部屋に戻ると、急にどっと眠気が押し寄せてきた。髪をタオルで拭きながら、座布団にぺたんと座る。

 ぽかぽかとした体に、さっきまでの緊張がほどけていく。海辺にある場所だからか、エアコンを付けなくても、窓を開けるだけでずっと涼しい。

 目を瞑ると、蛍光灯のやわらかい光が、まぶたの裏にじんわりと染みてくる。真琴さんの動く気配や、ラジオから流れるかすかな音、網戸越しから聞こえる鈴虫の音が、やけに遠くに感じられた。


「そしたら寝よか。ほら、布団敷くからのいてのいて」

「ふあい……」


 ぼんやりとした返事をしながら、私は座布団の上からのそのそと体を起こした。 真琴さんは、手際よく押し入れから布団を引っ張り出して、畳の上に広げていく。 その動きは手慣れていた。


「あ、私は布団で寝るから。小春ちゃんは座布団敷いて寝や」

「……普通こういう時って、私に布団譲りません?」


 つい、厚かましいことを言ってしまう。でも、真琴さんはまったく動じず、むしろ当然のように言い返してきた。


「明日も仕事やねん。腰痛なるのは勘弁やわ。若いもんは床で十分や」


 その言葉に、思わず笑ってしまいそうになる。なんだか、この数時間で私の扱いがどんどん雑になってきた気がするけど、それが不思議と嫌じゃなかった。むしろ、気を許してもらえてるような気がして、ちょっとだけ嬉しい。


 私は座布団を並べて、簡単な寝床を作った。枕と掛け布団は予備があるのか、真琴さんが貸してくれた。真琴さんはその隣に布団を敷いて、ぱんぱんと軽く叩いて整えていた。


 四畳半の部屋は、あっという間に寝床で埋まった。隙間なんてほとんどなくて、寝返りを打ったらぶつかりそうな距離だ。


「ほな、電気消すで」

「……はい」


 蛍光灯の紐が引かれ、部屋がすっと暗くなる。さっきまでのやわらかい光が消えて、代わりに夜の静けさが部屋を包んだ。鈴虫の声が一層目立つ。


 私はもう、ほとんどまどろんでいた。目を閉じれば、一瞬で眠れそうだった。


「……なあ。なんで……」


 布団の中から、ぽつりと真琴さんの声が聞こえた。その声は、さっきまでの軽やかな調子とは違って、どこか迷いを含んでいた。


「なんですか?」


 私は、目を閉じたまま問い返す。でも返ってきたのは、少し間を置いたあとだった。


「……いや、なんもない。おやすみぃ」


 その言葉に、私はそっと目を開けた。天井は暗くて、何も見えない。言いかけた言葉の続きを、私は聞かなくても、少しだけ分かる気がした。

 きっと、聞かないで欲しいことだったのかもしれない。多分気を遣ってくれたんだと思う。それが、申し訳なくもあり、ありがたくもあった。


 大体こういうことって、その家の人間じゃないと、事の重大さが測りかねるというか……

 なんというか、他人には分からない部分がある。どこの家庭にもあるようなことかもしれないけど、本当の意味では、きっと誰にも分かってもらえない。


 しばらくすると、隣から小さな寝息が聞こえてきた。静かないびき混じり。真琴さんが眠ってしまったらしい。その音が、なんだか妙に安心感をくれた。


 今日一日、いろんなことがあった。長い移動、知らない町、知らない人。でも今、こうして眠れる場所があることが、ただただありがたかった。


「……おやすみなさい」


 誰にともなく、そっと呟いて、私は静かに目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

目玉焼きって愛情やねん 米飯田小町 @kimuhan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画