残響の街:薄明かりの帝都
数ヶ月が流れた。
帝都の街は深山郷の凍てつく静寂とは打って変わって、活気に満ちた喧騒に包まれている。路面電車が音を立てて往来し、モダンな洋館が新しい時代の到来を告げるように建ち並ぶ。しかし、その輝かしい文明の光は、佐倉綾子の心に巣食う闇を照らすことはできなかった。
彼女は以前と同じ看護婦の職務に戻ろうと努め、無機質な白衣を身につけ、冷静に患者たちと向き合った。カルテに記された病状。薬の処方。体温の記録。すべてが合理的で、論理で説明可能な世界だった。
だが、深山郷で目にした「朽ちた木」の禍々しさ、肌で感じた超自然的な恐怖は、彼女の合理的な思考体系を根底から揺るがしていた。物事を科学と論理で説明しようとすればするほど、あの時の「何か」の存在が心の中で肥大し、形をなして迫ってくるような感覚に苛まれる。
夜な夜な、屋敷の軋む音や森から聞こえた奇妙な囁きが耳に蘇る。ふとした瞬間に、目の前の現実が揺らぎ、幻覚との境界が曖昧になる感覚に襲われるのだった。
鏡に映る自身の瞳の奥に、狂気の淵を覗き込むような暗い翳りを見つけるたび、彼女はもはや自分が正常な精神を保てているのか、自信を持つことができなかった。
月影静は、深山郷から帰ってきて以来、極度のHSPが悪化の一途を辿っていた。帝都のあらゆる物音、人々の感情の機微、街の底から響く微かな振動までが、以前にも増して彼女の神経を逆撫でする。人混みの中では、まるで無数の刃で心臓を抉られているかのような激痛に襲われた。
彼女は人との接触を避け、自室に引きこもりがちになった。窓から差し込む薄明かりだけが、外界との唯一の繋がりだった。外出しても、すれ違う人々の視線や聞こえてくる会話の断片。都市の底から響く微かな振動さえも、彼女にとっては耐え難い苦痛となる。
壁の染みや天井の木目に、時折、深い郷愁にも似た感情と共に妹・鈴の幻影を見る。あるいは、朽木家の薄暗い廊下を彷徨う自身の姿を見ることもあった。
彼女の心は深山郷に置き去りにされたままだ。帝都の日常に馴染むことができない。「あの場所で感じた穢れ」が今も自身の内側から染み出し、精神を蝕んでいるような感覚に苛まれている。恐怖と絶望が、彼女を深い孤独へと追い詰めていた。
葉山椿については、深山郷の出来事が彼女の精神に決定的な打撃を与えた。回復の見込みは絶望的だと判断され、鈴とは別の精神病院の病棟に収容されている。
かつての繊細で夢想的な面影は完全に失われ、常に怯えた表情で虚空や壁の染みに何かを見出すかのように、意味不明な言葉を呟き続けるばかりだった。彼女は「禁忌の部屋」で一体何が起こったのか、その全てを語ろうとしない。ただ、その瞳の奥には、理解を超えた恐怖の残滓が深く刻まれているように見えた。
彼女の魂は、あの屋敷の闇に完全に囚われてしまったかのようだった。
綾子は定期的に鈴と椿の元を訪れた。鈴は、帝都精神病院分院の静かな病室にいた。かつての活発さは失われたものの、深山郷にいた時よりも穏やかになったように見える。しかし、未だ時折、誰も理解できない朽木家での出来事を思わせる不可解な言葉を呟く。その目は虚空を見つめ、過去の記憶の残滓に囚われているかのようだった。
椿の病室では、彼女の狂気に満ちた呟きと怯えた視線が、綾子の心を深く抉る。二人の変わり果てた姿を見るたび、綾子は自身の無力さと、あの「何か」がまだ終わっていないことを痛感する。
医療従事者たちは、彼女たちの症状を単なる精神疾患として処理した。深山郷での出来事について語る綾子の言葉には耳を傾けようとしない。彼らの前では、深山郷はただの遠い山奥の因習に囚われた集落であり、そこで起こることは迷信として片付けられた。
ある日、病院の庭で一陣の風が古い木の葉を舞い上げた。その瞬間、綾子はふと、深山郷の森の奥で聞こえた葉擦れの音、そしてその奥から響いた不気味な囁きを思い出す。それは、都市の喧騒の中にいても、あの場所から連れてきてしまった「何か」の気配が、確かに自分たちの周りに存在し、今もなお彼女たちを監視していることを悟らせた。それは、物理的な存在というよりも、魂の奥底に巣食う呪いのようなものだった。
彼女たちは、深山郷で得た「知識」や「経験」を誰にも打ち明けることはできない。語れば狂人扱いされることは明白であり、社会から排除されるだけだと、本能的に理解していた。結局、彼女たちはそれぞれの心の中にあの「禁忌」を抱え込み、社会の片隅で静かに密やかに生きることを強いられる。
表面的には帝都の繁栄は続く。文明開化の光はますます強く、合理的な進歩が全てを覆い尽くすかのように見えた。しかし、その輝かしい文明の影には、依然として人知を超えた理解不能な闇が潜んでいる。
綾子は、高層建築の窓から変わりゆく帝都の街並みを眺める。近代化が進み、合理性がすべてを覆い尽くそうとしているこの時代においても、人々の心の奥底に潜む根源的な恐怖や、古くから伝わる土着の信仰の根深さが、決して消え去ることはない。それは、深山郷という閉鎖的な空間でのみ発現する特殊なものではなく、この文明社会の基盤そのものに絡みついているとさえ感じられた。
彼女の心には、深山郷で見た朽ちた木々のように、永遠に癒えることのない深い傷跡が刻み込まれていた。それは、彼女が「何か」の存在を否定しきれなくなった証であり、理性が狂気に、現実が幻覚に侵食されうる世界を認識してしまった、終わりのない恐怖の始まりだった。
彼女たちの物語はここで終わりを迎える。だが、深山郷の「残滓」は、彼女たちの魂に永遠に寄り添い続けるだろう。
朽ち木の咆哮 ―大正禁忌考― 月雲花風 @Nono_A
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