残滓の刻印:深山郷からの脱出

「キエエエエ!」静の悲鳴が屋敷に木霊した。

幻影の手が腕を掴み、髪を乱暴に引っ張る。その力は実体を持たなかったが、精神を直接抉るような痛みが静を襲う。


綾子もまた目に見えぬ力に全身を締め付けられ、息が苦しい。肺が潰れるような圧迫感に吐き気がこみ上げた。


「鈴…!こっちへ!」

綾子は必死に手を伸ばし、朽ちた木へと吸い寄せられる鈴の細い腕を掴んだ。鈴の瞳は虚ろで何も映っていないようだ。その体は朽ちた木の禍々しい魅力に囚われ、抗うように奥へと引き寄せられる。綾子の指が鈴の肌に食い込む。冷たい生気のない感触。


「離さないで…!」静が叫んだ。

彼女も幻影に引きずられながら、必死に鈴のもう片方の腕を掴んでいる。三人の体はまるで綱引きのように引き裂かれそうだ。部屋を満たす穢れの重圧が思考を奪い、本能的な恐怖だけが脳裏を支配した。


「椿!何してるの!」綾子が叫んだ。

椿は壁の血文字の古文書に夢中だった。顔には恐怖を通り越した狂気じみた陶酔が浮かぶ。虚ろな瞳は深淵を覗き込むように、奥深い真実を求める欲望に燃え上がっていた。


「ああ…これは…素晴らしい…深山郷の…真の姿…」椿がうわごとのように呟く。

指先が古文書の文字をなぞると、そこに生命が宿るかのように皮膚に這い上がる錯覚を覚える。彼女はもはやこの部屋から離れることを拒否しているようだった。


「椿!早く!ここから出るのよ!」

静が幻影の攻撃に耐えながら叫ぶ。その声は恐怖に震えながらも、友を救おうとする必死の響きを帯びていた。静は辛うじて鈴の腕を綾子に任せると、よろめきながら椿へと駆け寄った。


「離して…私は…ここに…いなければ…」

椿は静の手を振り払おうとする。瞳には異様な光が宿り、静を拒絶した。しかし静は諦めない。妹を失うかもしれない恐怖と、友を見捨てられない繊細な共感性が、命がけの力を与えた。


静は自分の精神が崩壊寸前であることも顧みず、椿の細い腕を力任せに掴む。指が、爪が椿の皮膚に食い込み、血が滲んだ。


「一緒に…行くのよ!」

静は叫び、椿を無理矢理部屋の外へと引き戻した。椿は引き裂かれるような苦痛に顔を歪ませながらも、最後の瞬間に穢れの源から引き離される。


三人は出口のない地獄から脱出するかのように、朽ちた扉を潜り抜けた。背後から朽ちた木が放つ禍々しい波動が、追いかけてくるように全身を打つ。重い扉が軋みを上げて閉まり、その音はまるで地獄の蓋が閉じられたかのように響いた。


屋敷の広間に出た途端、綾子の膝がガクリと崩れた。全身から力が抜け落ち、呼吸が乱れる。隣では静が荒い息を吐きながら椿を支えている。椿は虚ろな目で宙を見つめ、何かを呟く。口元には乾いた血の跡。


鈴は綾子の腕の中で意識を取り戻していた。だが瞳は相変わらず虚ろで、焦点が定まらない。綾子の呼びかけにも反応せず、時折、部屋で聞いた不吉な歌の断片をかすれた声で口ずさむだけだ。

「…贄…古き木が…招く…」

その声は遠い過去の残滓が鈴の体を通して語りかけているようだった。もはや綾子の知る妹ではない。精神は完全に破壊され、その存在は深山郷の穢れと一体化してしまったかのようだ。


綾子の合理的な世界観は完全に打ち砕かれていた。科学も理性も、目の前の現実には何の役にも立たない。ただ深い絶望と無力感が心を覆い尽くす。

しかし静が椿を必死に支える姿を見た時、綾子の心に最後の力が湧き上がるのを感じた。妹を救えなかった。だがせめてこの二人だけでも、この闇から連れ出さなければ。それが今、自分にできる唯一の償いなのだと。


「…行きましょう。ここから、早く…」

綾子は絞り出すような声で言った。


三人は足を引きずるようにして、荒れ果てた朽木家屋敷を後にした。重い足取りで不気味な沈黙に包まれた村を抜ける。

村人たちは道端で畑仕事の手を止め、あるいは家の戸口から、冷たいあるいは哀れむような視線で彼女たちを見送った。その瞳の奥にはどこか安堵の色が宿っているようにも見える。また一つ穢れが鎮まり、贄が捧げられたことに彼らは満足しているのか。

不気味な視線に、綾子は全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。


深山郷を抜ける道中、以前は美しかったはずの森は見る影もなく、巨大な影を落とす不気味な森へと変貌していた。澄んだはずの川は黒く濁り、淀んだ水面には自分たちの顔が歪んで映る。目にするもの、耳にするもの、触れるもの全てが狂気の色を帯び、彼女たちの精神を蝕んでいくかのようだ。


「…森が…囁いているわ…」椿が震える声で呟く。

彼女の目には綾子たちには見えない幻影が映っているのだろう。


「…あの木の…声が…聞こえる…」鈴もまた、虚ろな目で何も映らぬ宙を見つめながら呟いた。


深山郷の境界線を越えた瞬間、綾子たちは深く大きく息を吸い込んだ。しかし肺に入る空気は全く清々しくない。むしろ深山郷の土埃と、あの朽ちた木の腐敗臭が心の奥底にまで染み付いているように感じられた。

心臓の奥深くに深山郷の闇が深く、永遠に刻み込まれてしまう。それは決して消えることのない残滓の刻印。


帝都へ向かう道すがら、彼女たちの心は重く沈む。鈴の病状をどうするのか。帝都の精神病院に送っても、そこもまた穢れと繋がっている。椿の精神的な支えをどうするのか。彼女はもはや現実と幻覚の境界で彷徨っていた。

そして自分たち自身が、この筆舌に尽くしがたい経験からどう立ち直ればいいのか、全く見当がつかない。この深山郷で体験した恐怖は心に永遠に消えない傷跡を残し、たとえ帝都の賑わいの裏路地の光と影の中に戻ったとしても、静かにゆっくりと彼女たちを蝕み続けるだろう。

深山郷の残滓から、彼女たちは決して逃れることはできないのだ。

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