禁忌の解放:朽ちた木の咆哮
「禁忌の部屋」は、朽木家屋敷の最奥にひっそりと佇んでいた。深山郷と朽木家の、血塗られた歴史すべてを飲み込んだかのような場所。
分厚い木の扉は、時代を経た漆黒の闇をまとい、幾重にも古びた札が貼り付けられている。煤けた文字でびっしりと書き込まれた呪文は、読む者の理性を拒む。
その異様な光景を前に、綾子、静、椿は息を呑んだ。鈴は、彼女たちの腕に支えられながらも、虚ろな目つきで扉を見つめていた。永い眠りから覚めたかのように、その体は微かに震え、荒い呼吸を繰り返す。
「…朽ちた木は…贄を求め…」
鈴の高音が軋むように響き渡る。それはもはや、人間の言葉ではなかった。深い森の奥で、異形の獣が魂を絞り出すような、あるいは古びた錆びた鎖が擦れるような不快な音。
瞳には狂気と、しかし根源的な喜びが宿る。細い指先が、荒々しく扉を叩き始めた。
ドン、ドン、ドン。
その音が屋敷の沈黙を破り、心臓を直接叩くかのように響き渡る。鈴は扉に顔を押し付け、不気味な儀式の歌を歌い続けた。歌は口から溢れるのではなく、体そのものから、土地の底から湧き上がる「穢れ」と共に吐き出されているかのようだった。
椿は、歌声と扉の奥からの誘惑に抗えず、一歩また一歩と扉に近づく。虚ろな目には焦点がない。夢遊病者のように、無意識のうちに古い札へ手を伸ばした。
指先が震え、肌が粟立つ。札の奥に隠された禁断の真実が、魂を直接撫でるかのようだった。
ゆっくりと、一枚の札の端に指をかけ、剥がそうと試みる。
「椿、やめて!」
綾子の声が屋敷に響くが、椿には届かない。彼女の指は、磁石に引き寄せられるかのように、抗い難く札へと向かっていった。
綾子は、もはや科学的な思考を捨て去っていた。目の前の現象は、全ての合理性を凌駕する。妹を救う本能的な叫びと、この禍々しい「禁忌」の根源を暴かねばならない使命感。迷いはなく、直感と静への信頼だけが彼女を支える。
「静、手伝って。これを剥がすわ!」
綾子は決然とした声で言った。静は恐怖に顔を歪ませながらも、頷く。妹を救うため、もう後戻りはできない。彼女の心にも、抗いがたい覚悟が宿っていた。
二人は震える手で、扉の札を一枚、また一枚と剥がし始める。煤けた文字の下から、新たな禍々しい絵柄や記号が露わになった。
皮膚を剥がされるかのように、札はべったりと粘液を帯びる。その度に、カビと血、そして名状しがたい腐敗臭が鼻腔を襲い、胃がせり上がった。
最後の札が剥がされた瞬間、屋敷全体が激しく震え上がった。地の底から響くような「ゴウッ」という咆哮が、屋敷の隅々にまで木霊する。重い空気が荒れ狂い、彼らを吹き飛ばさんばかりだ。
埃が舞い上がり、朽ちた木材が軋む。三人は衝撃に体勢を崩し、壁に寄りかかった。
ゆっくりと、分厚い扉が軋みを上げて開いていく。その奥には、一切の光を拒絶したような薄暗い空間が広がっていた。闇そのものが凝縮された場所。
部屋の中央には、おぞましい「朽ちた木」の根のようなものが、床から天井へと不気味に絡みつく。それは単なる木ではない。見る者の魂を直接掴み、深淵へ引きずり込もうとする邪悪な生気を放つ。
表面は黒ずみ、瘤のように膨らみ、腐爛した肉塊のよう。
木からは、絶えず黒く粘性の高い液体が滴り落ちていた。ポタ、ポタ、ポタ。その音が、屋敷の静寂の中で狂おしいほどに響く。
部屋中には耐え難い異臭が充満する。血と腐敗、そして何かがゆっくりと朽ちていく、甘くおぞましい匂い。
部屋のそこかしこには、朽ちた祭壇、血痕のこびりついた奇妙な祭具、そして理解不能な呪いの品々が散乱していた。過去の「贄」たちが使用し、あるいは残していったものなのだろうか。
鈴は、「朽ちた木」へと磁石に引き寄せられるかのように進んでいく。虚ろな瞳には、この世ならざる「何か」への強烈な飢餓感。
腐爛した木に向かい、愛する恋人に手を伸ばすかのように、ゆっくりと細い指を伸ばした。
その瞬間、鈴の背後から、無数の幻影が闇の中から蠢き現れる。半透明でありながら生々しい人影だ。顔は苦痛に歪み、口は無言の叫びを上げる。
過去の「贄」たちの、苦痛と絶望に満ちた叫びが屋敷中に木霊した。キエエエエ…!
その声は、耳だけでなく脳髄を直接揺さぶり、彼らの精神を蝕んでいく。
椿は、部屋の禍々しい「何か」に完全に魅入られていた。足は部屋の奥へと踏み入り、狂気に満ちた瞳は、壁の禁忌の絵や、血で書かれた古文書に吸い寄せられる。
それは単なる絵や文字ではない。見る者の魂を直接蝕むような邪悪な意志を宿す。
「…禁忌…贄…これは…真実…」
椿の声が震えながら呟かれた。古文書に手を伸ばし、何かを理解しようと、虚ろな目で読み解こうとする。
この世ならざるものを求める彼女の魂が、「穢れ」そのものに触れ、一体化しようとする瞬間。指先が文字に触れると、まるで文字が生きているかのように蠢き、皮膚に這い上がる錯覚に襲われた。
綾子と静は、鈴を止めようと必死になった。しかし、「朽ちた木」から放たれる強烈な精神的な圧力と、部屋全体に満ちる禍々しい「穢れ」に阻まれ、身動きが取れない。
重い水の底に沈められたかのように体が動かない。空気は重く、息をするのも苦しい。皮膚が粟立ち、内臓がねじれるような嫌悪感が全身を支配した。
この部屋こそが、深山郷の「穢れ」の源。村人たちが長年隠し、贄を捧げてきた「何か」が封じられていた場所なのだ。
それは、単なる土着信仰が生み出した集団的狂気だけではなかった。この土地そのものに根付く邪悪な存在。あるいは、村人たちの罪悪感と恐怖が具現化した、この世ならざるもの。
部屋の中では、過去の犠牲者たちの幻影が、今度は綾子たちに襲い掛かる。半透明の手が、綾子の腕を掴み、静の髪を引っ張った。
精神的な攻撃、視覚的な幻覚、そして身体的な苦痛が、彼女たちの肉体と精神を同時に蝕んでいく。背筋を這い上がる冷気、耳元で囁かれる絶望の声、全身を駆け巡る針のような痛み。
「ぐっ…!」
綾子は膝を突きそうになりながらも、「朽ちた木」から目を離さない。理性を完全に捨て去ったことで、彼女の心は、初めて「何か」の真の姿を感じ取ることができた。
それは、人間が作り出した狂気と、この土地に宿る根源的な「穢れ」が融合した、この世ならざる存在。まさに深淵そのもの。
その姿は特定の形を持たない。見る者の最も深い恐怖を映し出すかのように、一瞬で形を変え、綾子の精神を叩き潰そうとする。
脳裏には、妹の憔悴した姿、精神病院での惨状、深山郷の村人たちの冷たい視線が、次々とフラッシュバックした。全ては繋がっていた。この「朽ちた木」こそが、全ての元凶だったのだ。
静は幻影の攻撃に悲鳴を上げた。鈴を抱きしめようと必死に手を伸ばすが、幻影は鈴を通り抜け、静の体へと侵食していく。その顔は蒼白になり、口から泡を吹いた。
椿は壁の古文書を読み続ける。内容を理解するたび、口元に不気味な笑みが浮かんでいく。彼女の心は、既に「禁忌」に完全に囚われていた。
綾子は、絶望の淵に立たされる。目の前には、妹が、友が、狂気に呑み込まれていく光景。自分自身もまた、その深淵に引きずり込まれようとしている。
この部屋に出口はない。ただ、この禍々しい「穢れ」に呑み込まれるだけなのか。
彼女の心に、深い、底の見えない絶望が広がった。
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