穢れた帰還:鈴の変貌と禁忌への誘い

帝都の精神病院分院での悪夢のような調査を終え、綾子たちは重い足取りで深山郷へと戻った。薄暗い山道を三人は黙々と歩き続ける。分院で得られたおぞましい知識は、深山郷の「禁忌」が単なる古くからの迷信や土着の信仰ではないことを示していた。それは人間の狂気と、この土地に根差す邪悪な存在が複雑に絡み合った結果だった。


科学と呪術。理知と狂気。その境界線は既に曖昧となり、全てが混じり合い、彼らの常識を粉々に打ち砕く。綾子の胸には深い絶望と共に、もはや後戻りできないという諦念にも似た決意が宿っていた。


村の入り口を再び踏み入れた途端、以前にも増して重苦しい空気が三人を包み込んだ。空は鉛色に淀み、吹き抜ける風さえ不吉な匂いを運んでくるようだ。村人たちの視線は、もはや冷淡というより露骨な警戒と監視の色を帯びる。家々の戸は固く閉ざされ、その隙間から覗く視線は、まるで三人が村の平穏を乱す異物であるかのように肌を刺した。


古民家へ向かう道すがら、どの家からも人影は見えず、ただ陰鬱な沈黙だけがつきまとう。遠く森の奥からは、あの不気味な呻き声が以前にも増してはっきりと聞こえる気がした。それは獲物を狙う獣の咆哮か、あるいは苦悶に喘ぐ人間の声か。判別できない不快な音が三人の心を苛んだ。


宿として利用している古民家の戸を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。奥の部屋から漏れ聞こえる、か細くも耳にまとわりつくような歌声に、三人は息を飲む。鈴だった。


その歌声は、幼い頃に静が聞かせた子守歌のような優しい旋律ではない。どこかひび割れ、調子の外れた不気味な響きを持っていた。


奥の部屋に入ると、そこに横たわる鈴の姿に静は声を上げて駆け寄ろうとする。だが綾子がその肩を強く掴んで止めた。鈴の姿は数日前に見た時よりもさらに痩せ細っている。


その華奢な体には皮膚を突き破るかのように意味不明な文字や記号が浮かび上がり、まるで呪いだった。奇妙な毒々しい色の草木が絡みつく。もはや人というよりは、森の奥から引きずり出された異形の、朽ちていく存在のようだった。生気を失った彼女の瞳は虚ろに、しかし一点の狂気を宿して天井を見つめている。


「鈴…!」


静が絞り出すように呟く。しかし鈴は反応しない。彼女の視線がふと窓の外、朽木家屋敷の方向、特に「禁忌の部屋」があるであろう方角へと向けられた。


その乾いた唇から不気味な歌が途切れ途切れに紡ぎ出される。それは日本語とも言えぬ。しかしどこか郷愁を誘うような響きを持つ、呪文めいた旋律だった。その音はまるで地の底から湧き上がるかのようで、聞く者の魂を直接揺さぶる。


「…朽ちた木は…贄を求め…」


「…血は大地に還り…禁忌は開く…」


「…魂は喰われ…肉体は器に…」


「…古き穢れは…蘇る…」


鈴の言葉は途切れ途切れで、その意味を完全に理解することはできない。だがその断片からは、彼女が「禁忌の部屋」で何を目撃し、何が精神に取り憑いたのかが朧げながらも恐ろしく明らかになっていく。それは単なる幻覚ではなかった。深山郷の土地が持つ「穢れ」や朽木家の血塗られた過去、そして「古の贄」の儀式の記憶。それが鈴の感受性の高い精神に直接流れ込んできたかのようだった。


体中に浮かび上がる記号も、地下室で発見された手記にあった呪術的な絵と酷似する。鈴は生きたまま「禁忌」の記憶を宿し、その現れとなりつつあったのだ。


椿は、鈴の悪化した状態と、古民家全体から発せられる皮膚を粟立たせるような強烈な「気配」に強く引き寄せられていた。彼女の瞳は虚ろに、しかし一点の狂気じみた光を宿して室内を見つめる。それは壁の染み、天井の影、古びた木材の節穴。あるいはその奥に見えない「何か」の姿を捉えているかのようだ。


まるで屋敷の過去の「声」や「イメージ」を直接的に感じ取っている。彼女の感受性は極限まで高まり、現実と幻覚の境界が曖昧になり始めている。


「ここに…全てが…繋がっている…」


椿の声が震える。その声音は、恐怖と抗いがたい魅了が混じり合った、狂気じみた高揚感を帯びていた。


「あの地下室…あの手記…あの儀式…全てが…」


彼女は深淵を覗き込むかのように鈴の姿を見つめる。まるで自分もその深淵の一部になりたいと願うかのように。


綾子の合理的な世界観は、月影鈴の現状を前に完全に崩壊していた。目の前の超自然的な現象と、人間の狂気が生み出した恐怖。その前では自身の理屈はあまりにも無力だった。しかし諦めるわけにはいかない。もう引き返すことはできない。いや、引き返してはならない。


妹の病の真の原因を探るという自らの原点。そして目の前で苦しむ鈴を救うという使命が、彼女の心を突き動かしていた。


「禁忌の部屋…」


綾子は呟いた。その言葉は、口に出すと同時に彼女自身の心の奥底で覚悟となって響く。もう自身の常識を捨て去るしかない。深山郷の、この忌まわしい闇の根源に触れるしかない。封印された部屋の謎を解き明かし、その扉を開けるしかないと、彼女は覚悟を決めた。その決意は、絶望の淵から這い上がってきたような研ぎ澄まされた鋭さを持っていた。


静は、妹の完全な変貌に耐えきれず精神的に追い詰められていた。鈴の目が、かつての愛しい妹のそれとはまるで違う。静の心は張り裂けそうになる。深い悲しみと、何もできない無力感に苛まれ、彼女は膝から崩れ落ちそうになった。しかし、綾子の決意に満ちた横顔と、鈴を救いたい一心で、底知れぬ恐怖に打ち克とうと必死に足掻く。


「…鈴を…助けて…お願い…」


静の声は震えながらも、強い意志を秘めていた。彼女は妹の冷たい手を握りしめ、その温もりを必死に求めた。


夜が深まるにつれて、古民家の異様な雰囲気は最高潮に達した。森の奥からは、今やはっきりと人間じみた、しかし人間ならざる不気味な呻き声が響き渡る。その声は、古民家の壁や床から染み出すかのように、彼らの耳を直接叩いた。


壁の染みが人の顔に見える。天井の木目模様が蠢く蛇のように見えた。視界の端で何かが蠢いた気がして、思わず目を擦る。それは幻覚か。それともこの世ならざる「何か」の気配が、より一層色濃くなってきた証拠か。三人の精神は、このおぞましい空間に蝕まれていく。


深山郷の「禁忌」が、遂にその姿を現そうとしている。その前兆は既にそこにあった。彼女たちは、自らがこの闇の深淵に、さらに深く囚われつつあることをはっきりと感じ始めていた。逃れる術などどこにもない。ただ、禁忌が誘うままに進むしかない。


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