分院の地下:狂気の実験室

帝都の郊外に佇む精神病院分院は、文明開化の華やかさとはまるで無縁の、古びた石造りの建物だった。苔むした壁面には歴史の重みが滲み、窓からは薄暗い光しか差し込まない。まるで時間の流れから切り離されたかのような、陰鬱な雰囲気が漂う。ここが鈴の送られた場所。そして深山郷の「禁忌」と帝都の「科学」が、おぞましい形で交錯する場所だと綾子は直感していた。


重厚な扉を開け、事務室で院長との面会を求める三人。だが、無感情な事務員の言葉と冷淡な拒絶が待っていた。「患者の個人情報に関わることですので お答えしかねます」。紋切り型の返答に、綾子の苛立ちが募る。しかし彼女は冷静を装い、粘り強く交渉を続けた。


ジャーナリストとして培った洞察力で、綾子は事務員の微かな表情の変化や視線の動きを読み取った。その視線の先に、埃を被った古い記録室の扉がある。それに気づいた時、静が声を上げた。「私の妹が、この病院にいたはずです。せめて、彼女の病状だけでも」。静の絞り出すような声には、妹を案じる切実な響きがあった。


その言葉と綾子の粘り。それが功を奏したのか、あるいは三人の纏うただならぬ雰囲気に気圧されたのか。事務員は渋々といった様子で、閉鎖された古い記録室への立ち入りを許可した。ただし閲覧は短時間に限る、という条件付きで。


きしむ扉を開けると、記録室は埃とカビの匂いが充満していた。薄暗い室内に積み上げられた古びたカルテの山は、病に苦しんだ無数の魂の記録のようだ。綾子は手早く棚を漁り、鈴の氏名で検索を試みた。しかし鈴のカルテは見つからない。


不審に思いながらも、綾子は深山郷からの転院記録を辿った。すると、鈴と共通する症状を持つ複数の患者のカルテが発見された。「発狂の歌、朽ちた木への執着、幻視」。綾子は、ある患者のカルテに記された記述を読み上げ、思わず息を呑む。それは鈴がかつて発していた言葉や行動と、驚くほど一致していたのだ。他のカルテにも同様の記述が散見される。


さらに目を引いたのは、患者たちに施された「治療」と称される、およそ医療とはかけ離れた非人道的な実験の痕跡だった。常軌を逸した薬物投与量。数ヶ月に及ぶ拘束期間の記録。そして曖昧な経過観察の記述。それは治療ではなく、むしろ病状を悪化させるための実験ではないかと綾子は確信する。


「これは まさか」。静がカルテの文字を震える指でなぞった。「鈴も、こんな目に」。妹の苦しみが、この冷たい場所で人為的に引き起こされていたかもしれないという事実。静の心は深い絶望と怒りに打ち震えた。


その時、椿が記録室の奥に隠された一角に目を留めた。古びた書棚の陰に不自然な隙間がある。彼女は衝動に駆られるまま書棚を押し開いた。すると、地下へと続く秘密の通路が姿を現す。ひやりとした空気が奥から吹き上げてきた。「まさか」。綾子の声が震える。


狭い通路を下りると、そこはかつて患者たちへの非倫理的な実験が秘密裏に行われていた場所だった。薄暗い空間には、錆びた拘束器具、汚れた包帯、乾いた血痕のようなシミが散乱している。壁には、患者たちが狂気の果てに描き残したと思われる意味不明な図形。そして血文字で刻まれた「朽ちた木」「禁忌」「贄」といった言葉が、不気味なまでに深山郷のそれと重なり合った。


「ここに。ここに『穢れ』が集められ、研究されていたのか」。綾子は推理する。この病院が深山郷の「穢れ」の拡散を防ぐため、あるいは「穢れ」そのものを研究するために、人間の精神を犠牲にしてきた場所である可能性を。合理的な彼女の世界観は、もはや完全に超自然的な現象を受け入れざるを得なくなっていた。


静は、床に落ちていた古びた患者の遺品らしき人形を拾い上げた。埃にまみれたその人形は、かつての持ち主が感じたであろう恐怖や絶望を、今に伝えるかのようだ。彼女の目からは大粒の涙が溢れ落ちる。人間の倫理を踏みにじった者たちへの激しい怒りが、心の中で沸騰した。「許さない。こんなことが」。


椿は、血文字で刻まれた壁の文字に指を触れた。深山郷で目にした呪術的な絵が、脳裏に鮮やかに蘇る。この病院の「禁忌」が、深山郷の「禁忌」と物理的にも、あるいは精神的にも深く繋がり合っている。その事実に、抑えきれない好奇心と畏怖が押し寄せた。彼女の心は狂気の境界線に一歩足を踏み入れ、この世ならざるものを求めるかのように震える。ここが、まさに彼女が求めていた真実の深淵なのかもしれない。


その時、地下室の奥から、誰もいないはずのかすかな呻き声や足音が聞こえたような気がした。錯覚か。それとも、ここに囚われた患者たちの怨嗟の声か。三人の精神は、このおぞましい空間に蝕まれていく。

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