帝都精神病院分院:過去の亡霊

朽木家屋敷の地下深く。鈴の虚ろな姿、血塗られた古手記、贄の儀式の痕跡が三人の心を締め付けた。


冷たい土器の破片を握りしめながら、佐倉綾子は震える声で呟く。

「妹が、こんな…こんなことに関わっていたなんて」

彼女の合理的な世界観は完全に打ち砕かれた。目の前の現実は、科学や論理では説明できないおぞましい『何か』の存在を雄弁に語っていた。吐き気を催す嫌悪感が胃の底から込み上げ、全身を戦慄が駆け巡る。妹の病の原因を探求してきたはずのその心が、今や自らを蝕む刃となる。だが、この痛みこそが真実から目を背けることを許さなかった。


月影静は壁に凭れ、顔色を失っていた。幼い頃から苛んできた悪夢が、具体的な形を伴い目の前に現れたのだ。変わり果てた鈴の姿は、手記に記された『贄』そのもの。妹の苦しみが、この土地の因習だけでなく、さらに悍ましい『人為』によって引き起こされたかもしれない。その事実に直面し、静の心は深い絶望と怒りに打ち震える。理性の皮膜が剥がれ落ち、生々しい感情が剥き出しになった。信じていた全てが足元から崩れ去る感覚。それでも、妹の苦しみを少しでも和らげたい切なる願いが、彼女をかろうじて立たせていた。


葉山椿は、手記の呪術的な絵と鈴の虚ろな目を交互に見つめた。その瞳の奥には、恐怖を超えた狂気じみた探求心が燃え盛る。深山郷の土着信仰と帝都の近代的な精神病院。一見相容れない二つの要素が、鈴を介して繋がる異様な接点。それが椿の心を強く惹きつけた。それは、決して開けてはならない『禁忌の扉』を、さらに深くこじ開ける衝動にも似ている。指先が手記の奇妙な記号の上を滑り、その触覚からさえ禁忌の熱を感じ取ろうとするかのよう。

しかし同時に、近代的な医療の裏側に潜む『闇』への得体の知れない不気味さが、椿の心をざわつかせた。文明の象徴たる場所が、土着の因習と結びついている。その歪みが、彼女の心を深く揺さぶった。


三人は、朽木家の手記に記された『贄』の記録と、帝都精神病院分院への言及を繰り返し読み返した。

『贄として選ばれし者、狂気に取り憑かれし者、あるいはその身に穢れを宿せし者、帝都精神病院分院へと送られるべし』

この一文は、綾子の胸に深く突き刺さる。妹の病を治すために入院した病院が、実はこの地の禁忌と密接に繋がっていたとすれば。鈴の苦しみは、病ではなく、人為的な『何か』によるものだったのか。


手記には、過去に『穢れ』を宿した者、儀式に関わった者、そして精神を病んだとされた村の娘たちが、帝都の分院に送られていた事実が記されていた。深山郷の村人たちはよそ者に対し冷たく警戒したが、粘り強く断片的な証言を集めるうち、老婆の震える唇から曖昧な記憶が引き出される。

「あれは狂い病じゃったが、都会へ行けば治ると…お医者さまが連れて行った」

その言葉は、手記の記述と不気味なほどに符合する。鈴の症状と酷似した記述を持つ患者のカルテが、病院に存在する可能性。それは綾子の胸に新たな、より現実的な恐怖を呼び起こした。この病院は、単なる精神病患者の収容施設ではない。深山郷の『穢れ』や『禁忌』と密接に結びついた、非倫理的な治療や実験を行っていた可能性が極めて高かった。


「鈴の真実を知るには、この村だけでは限界がある」

綾子は静かに、しかし確固たる声で言った。その声には、恐怖を乗り越えようとする強い意志が込められている。

「あそこに行くしかない。帝都精神病院分院へ。きっと、鈴のカルテがあるはずよ。あるいは、鈴と同じ症状の患者の記録が…」

彼女の思考は、混乱の渦中から再びジャーナリストとしての探求心と理性を呼び覚まそうとしていた。


静は顔を上げた。その目には、怒りと悲しみ、そして一筋の決意の光が宿る。

「ええ…鈴は、あそこで何があったのか。全てを知りたい」

彼女の理性が感情に押し流されそうになりながらも、妹を思う気持ちが突き動かす。妹の苦しみがこの世の闇によってもたらされたとすれば、それを暴き出すことこそが姉としての務めだと、静は自らに言い聞かせた。

椿もまた手記から顔を上げ、静かに頷く。

「この不可解な繋がり…私も、その深淵を覗いてみたい」

その声には、以前のような怯えはない。むしろ冷徹な好奇心が宿っていた。禁忌への魅了は、もはや彼女の理性をも上回るほどに成長している。


朽木家屋敷の調査は一時中断。三人は深山郷を離れる準備を始めた。宿の古民家に戻り、最小限の荷物をまとめる。

鈴は屋敷の地下で発見された後、仮の処置として宿の離れで静養させている。すぐに帝都へ連れて行くのは不可能だった。彼女の衰弱は想像を絶するもので、長旅に耐えられる状態ではない。一時的に村に預けるのは心苦しいが、真実を突き止めるにはこれしか道がない。


村を出る決意を固めたものの、その道のりは決して平穏ではないだろう。村の出口へ向かう途中、村人たちの視線が肌に突き刺さる。彼らは口を開かない。だが、その瞳は冷たく、あるいは哀れむような色を湛え、三人を見つめていた。その視線は、まるで彼女たちがこれから踏み込もうとしている『禁忌』の深淵を知り尽くしているかのよう。あるいは、自分たちもまたその『禁忌』に囚われた者たちだと、暗示しているのかもしれない。

背後には深山郷の重苦しい空気が澱のように残り、森の奥からは相変わらず人間じみた不気味な呻き声が聞こえる。それは、この土地の『穢れ』が今も生き続けていることを示唆していた。


三人を乗せた馬車が、帝都へと続く山道を下り始める。窓の外に広がるのは、古木の影が落ちる薄暗い山並み。

深山郷の『禁忌』は、山奥に閉じ込められたままではなかった。それは近代の光が射し込む帝都の裏側で、密かに、そして組織的に息づいていたのだ。新たな恐怖の淵へと足を踏み入れることを意味すると知りながらも、綾子たちは止まることはできない。鈴の真実、そして『穢れ』の全貌を解き明かすためには、もはや後戻りは許されない。

彼女たちの旅は、さらなる深淵へと誘われていく。文明の光と闇が交錯する帝都で、一体どのような真実が待ち受けているのか。その答えを求め、馬車は埃っぽい道をひた走った。

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