贄の系譜:禁忌の痕跡

鈴の虚ろな呟きが、地下室の冷たい空気に溶けて消えた。佐倉綾子は、氷のように冷たい妹の手を握りしめる。その言葉の断片を必死に繋ぎ合わせようとしていた。

「朽ちた木…朽ちた木が…囁く…」

「贄よ…古の贄…」

か細い声は、朽木家に残された手記の忌まわしい記述と、あまりに不気味なほど符合していた。


月影静は、全身の血の気が引いたような顔色で壁に凭れかかっていた。一点を見つめるその目に映るのは、幼い頃から彼女を苦しめてきた悪夢が現実の形を取った光景だ。変わり果てた鈴の姿は、手記に記された「穢れを鎮めるための贄」そのものに見えた。静の心は深い絶望と恐怖に打ちひしがれる。


一方、葉山椿は古い手記を広げたまま、鈴と手記を交互に見る。瞳の奥には、恐怖を凌駕する狂気じみた探求心が燃え盛っていた。指先が、手記に描かれたおぞましい呪術的な絵の上をまるで愛撫するように滑っていく。


手記には、深山郷の土地が抱える根源的な「穢れ」について記されていた。山と森、水脈と土壌。そこに脈々と流れる「何か」が、時に村に豊かな恵みをもたらし、時に容赦なく病と飢饉を招く。その「穢れ」が強まり村を荒廃させぬよう、朽木家は古くから鎮撫の「役目」を担ってきたのだ。


それは数世代に一度、穢れが最も強まった時期に贄となる者を捧げ、土地の均衡を保つ血塗られた儀式だった。「古の贄」と名付けられたその儀式。贄として選ばれるのは決まって村の娘たちだった。彼女たちは屋敷の奥深くへと連れて行かれ、「朽ちた木」と呼ばれる存在にその身を捧げる。儀式の過程で、娘たちは徐々に精神を蝕まれ、狂気へと追いやられるのだ。


手記には、贄となった娘たちの悲痛な記録がおぞましい絵と共に克明に記されていた。奇妙な草木が体に絡みつき、意味不明な言葉を呟きながら人間としての形を失っていく姿が。鈴の姿は、手記の挿絵と寸分違わぬほど酷似していた。その生々しい事実に、綾子の胃の底から熱いものが込み上げる。


理性を超えた嫌悪感と、今にも嘔吐を催しそうな戦慄が全身を駆け巡った。今まで信じてきた科学と合理性の全てが、目の前で脆くも崩れ去っていく音を聞いた気がする。


さらに手記の記述は、三人をさらなる深淵へと引きずり込んだ。ページの隅には、小さな文字で記されていた。

「…贄として選ばれし者、狂気に取り憑かれし者、あるいはその身に穢れを宿せし者、帝都精神病院分院へと送られるべし…」


綾子の目が見開かれる。帝都精神病院分院。近代的な医療を謳いながらも、旧時代の非倫理的な治療や人体実験の噂が絶えない場所。かつて彼女の最愛の妹も、数ヶ月前に失踪した鈴も、朽木家が「精神を病んだ者たち」として記録していた深山郷の多くの人々も、皆そこへ送られていたのだ。


「そんな…まさか…」

綾子の脳裏に、妹が送られた病院での憔悴しきった姿が鮮明に蘇った。あの病院で、妹は一体何をされていたのか。


鈴の症状と、朽木家が記した過去の贄たちの発狂記録。そして分院の患者たちの不気味な症状。全てが奇妙なほど共通している。その事実は、深山郷の禁忌が、帝都の近代的な医療機関とすら裏で繋がっていたことを冷酷に、明確に突きつけた。この土地の闇は、帝都の「文明」の光さえも飲み込み、その奥深くで密かに、組織的に息づいていた。


月影静は、その衝撃的な事実に全身を震わせ、その場に崩れ落ちる。もはやこの真実は彼女の理解の範疇をはるかに超え、ただ深い絶望と、逃れようのない閉塞感が心を支配した。自身の妹が、遠い故郷の忌まわしい因習と、帝都の裏社会の闇に絡め取られていたという事実が、彼女の精神を激しく打ち砕かれる。


一方、葉山椿は、その事実をまるで新たな啓示であるかのように、恍惚とした表情で手記の文字をなぞる。

「穢れ…病院…すべて、繋がっていたのね…」

その声は、狂気じみた喜びと、抑えきれない興奮を帯びていた。彼女の知的好奇心は、もはや恐怖の限界をはるかに超え、禁忌の深淵へと自らを投じようとしているかのようだ。


地下室の奥へと、蝋燭の僅かな光を頼りに進む。手記に記された儀式の場所を示す記述と、間取り図の隠された通路の情報を照らし合わせ、朽ちた祭壇のようなものを見つけた。粗い石を積み重ねただけの簡素な作り。しかしその上には黒ずんだ染みがこびりつき、血の痕跡であると示唆していた。干からびた奇妙な形状の草木が絡みつき、異様な雰囲気を醸し出している。


祭壇の傍らには、供物が置かれたと思しき円形のくぼみがあった。その土の中を漁ると、ひび割れた古い土器の破片や、動物の骨のようなものがいくつも転がる。それは何世代にも渡り、この場所で忌まわしい「贄」の儀式が繰り返されてきたことの、動かぬ、あまりにも現実的な証拠だった。


綾子の合理的思考は完全に粉砕された。目の前の物理的な痕跡が、これが単なる精神的な幻覚や病気などではない。この世に確かに存在する、禍々しく、悍ましい現実であることを雄弁に物語っていた。その事実は、彼女の魂の奥底を深く抉り、吐き気と戦慄が止まらない。妹の病の真の原因を探し求めてきた探求心は、今、自らの精神を激しく蝕む刃となって突き刺さる。


深山郷の森の奥から聞こえる人間じみた不気味な呻き声は、もはや遠い幻聴ではない。地下深く、鈴の体に絡みつく「何か」。この祭壇で繰り返されてきた「贄」の儀式。そして帝都の病院に送られた者たちの狂気。全てが一本の線で繋がっているのだと、綾子は直感する。


この土地の闇は、想像以上に深く、広範囲に及んでいた。三人は、まるで巨大な蜘蛛の巣の中心に囚われた獲物のように身動きが取れずに立ち尽くした。その眼前に広がるのは、古より続く絶望と、未来を覆う暗黒だけだった。


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