再会:虚ろなる魂

薄暗い地下室の奥。間取り図に記された隠し通路は、湿った土と腐敗した草木の臭いを吐き出していた。葉山椿が蝋燭の炎をかざし、その細い通路の先を照らす。三人の息が同時に止まった。


そこに月影鈴がいた。しかし、それは、もはや彼女たちが知る鈴ではない。痩せ細り、青白い肌。朽ちた木の根が絡みつく壁にもたれかかる姿は、生ける屍のようだ。着ていた衣服は擦り切れ、素肌には赤黒い染みのように意味不明な文字や記号がびっしりと刻まれる。何よりも、瞳からは光が完全に失われ、ただ虚ろな、底の見えない闇が広がっていた。そこには感情も意識も感じられない。


「鈴…っ!」


佐倉綾子が思わず声を絞り出した。しかし鈴は反応しない。その虚ろな目は焦点を定めぬまま、天井の闇を見上げている。綾子が震える手で鈴の肩に触れると、その体は氷のように冷たかった。絡みつく草木はただの蔓ではない。見たこともない奇妙な形状をしており、鈴の皮膚に食い込んでいるように見えた。


異様な静寂の中、鈴の唇がかすかに動いた。


「朽ちた木…朽ちた木が…囁く…」

「贄よ…古の贄…」


それはか細く、しかし異様に響く声。まるで朽木家の手記に記された「禁忌」の呪文が、鈴の口を借りて語られているかのようだった。


月影静は、その光景を直視できない。へたり込むように壁に手をついた。全身を襲う悪寒と震えは、もはや恐怖というよりも絶望に近い。彼女が予感していた最も忌まわしい真実が、今、目の前で具現化している。鈴の変貌した姿、その虚ろな言葉は、静の幼い頃からの悪夢そのものだった。あの深山郷の得体の知れない「何か」が、妹を本当に蝕んだのだ。


「嘘…そんな…」


綾子の合理的思考は音を立てて崩れ去った。目の前の光景は、精神病院の患者の症状などでは説明できない。科学や医学の及ばない領域だ。妹の病の真の原因を探し求めてきたはずの綾子の心に、決定的な亀裂が入る。これは病ではない。もっと根源的な、この土地に根差した禍々しい「何か」が、鈴を、そしておそらく過去の朽木家の狂人たちを蝕んできたのだ。その事実が、彼女の理性と信仰の全てを打ち砕いた。


「これ…これこそが…」


葉山椿は、一瞬、鈴の悍ましい姿に凍りついた。しかし、すぐにその表情は恐怖を通り越した異様な高揚感に変わる。手記に記された「贄」の描写が鈴の姿と重なる。まるで自らが探求していた「禁忌」の具現化が目の前にあるかのようだった。彼女の瞳には狂気じみた光が宿り、その場に響く鈴の呟きを、神聖な啓示のように聞き入る。


「…穢れを鎮める…儀式…」


椿の精神は、もはや現実と幻想の境を見失っていた。


三人の間には、重苦しい沈黙が横たわった。鈴の虚ろな呟きだけが、地下室の闇に吸い込まれていく。その声は、深山郷の森の奥から聞こえる不気味な呻き声と、どこか不気味に共鳴しているようだった。自分たちが立ち向かっているのは、単なる病や迷信ではない。もっと古く、深く、この土地に根差した、人間には理解し得ない「何か」。その圧倒的な恐怖と、それに対する自分たちの無力感が、三人の魂を深く蝕んでいく。真実の恐怖は、ついに悍ましい姿を現したのだ。


綾子は、砕け散った理性の破片をかき集めるように、か細い呼吸を整えた。目の前の光景から目を逸らそうとする静の腕を掴み、鈴のもとへ歩み寄る。


「鈴…聞こえる?」


綾子の声は震えていた。しかし鈴は反応しない。その虚ろな瞳は、ただ天井の闇を見つめ続ける。


静は無意識に綾子の手を振り払った。


「駄目よ…触れては…駄目だわ…」


その声には、恐怖だけではない深い絶望が滲んでいた。


葉山椿は蝋燭の光を鈴の素肌に近づけ、刻まれた赤黒い記号を異様な熱を帯びた眼差しで追いかけていた。


「これ…深山郷の古文書にあった…『贄の印』…」


彼女の呟きは確信に満ちていた。その言葉が、綾子と静の心を再び凍てつかせる。これは紛れもない現実なのだ。そして、この『現実』は彼女たちの理解を遥かに超えていた。

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