禁忌の淵に魅せられ

朽木家屋敷に吹き荒れる風は、深山郷の冷たい気配を運ぶ。綾子が合理的な探求を続ける一方で、静は怯えきって引きこもっていた。そんな二人とは対照的に、葉山椿の心には異様な熱が灯り始めていた。


村人たちが口を閉ざす「禁忌の部屋」。静が幻覚に苛まれながら呟いた「禁忌」という言葉。それらは椿の底知れぬ好奇心を強く刺激した。屋敷の禍々しい魅力と相まって、彼女は深淵へと引きずり込まれていくようだった。


綾子が古文書の解読に励み、静が自室に閉じこもって怯える日々。その陰で、椿は屋敷の奥深くへと足を踏み入れていた。


埃と黴の匂い、軋む床板。風ではない何かの囁きが、絶えず耳元を掠めた。それは恐怖であり、同時に抗い難い誘惑だった。


幼い頃、原因不明の病で西洋医学が役に立たず、家族が迷信に頼る姿を見た経験があった。それが彼女の心に、合理性だけでは割り切れない「何か」への親和性を深く植え付けていたのだ。朽木家の血縁という曖昧な噂もまた、椿の深層心理をざわめかせていた。


綾子が見つけた屋敷の間取り図には、隠された扉や通路が記されていた。その一つが「禁忌の部屋」へと繋がるとあった。椿の胸のざわめきは確信へと変わる。


彼女は屋敷裏手の朽ちた物置小屋の床下へと視線を移した。間取り図通り、人目につかぬその場所に古びた木戸が隠されていた。錆びた蝶番を軋ませ開くと、下から冷たく湿った空気が顔を撫でた。


漆黒の闇が広がる地下室への階段は、まるで口を開けた獣の喉のようだ。湿気を帯びた空気は重く、鼻腔を襲うのは土と、何かが朽ちたような嫌な甘い臭い。


しかし椿の足は止まらなかった。むしろ一歩踏み出すごとに、彼女の胸に説明のつかない高揚感が満ちていく。恐怖は好奇心という名の燃料となり、その炎は椿を禁忌の淵へと駆り立てた。


壁の蝋燭立てに一本の蝋燭を灯すと、仄暗い光が狭く低い空間を照らし出した。そこは日常とはかけ離れた場所だった。


中央には泥で汚れた小さな祭壇らしきもの。その上に、異様に奇怪な形状をした木像が鎮座していた。悍ましい顔つきは、深く刻まれた皺が苦痛に喘ぐようにも、あるいは何事かを訴えかけるようにも見える。その視線は椿をまっすぐに捉え、まるで生贄を求め、彼女に語りかけているかのようだった。異様な像は椿の意識を深く吸い込んでいく。


祭壇の脇には古びた革で装丁された一冊の手記。朽木家の家紋が掠れて刻まれた表紙は、代々の当主が記したものなのだろう。椿は震える手でそれを開いた。


インクが滲み、読み辛い筆跡で書かれた頁には、深山郷に古くから伝わる「穢れ」と、それを鎮めるための「古の贄」に関する記述があった。ぞっとするほど詳細な呪術的な絵も描かれている。贄の準備、儀式の具体的な手順、捧げられるものの描写。それは狂気と信仰が織りなす、血塗られた物語だった。


椿は時間を忘れ、手記を貪るように読み耽った。頁を捲るごとに、古の因習が彼女の精神に直接語りかけてくる。犠牲の痛み、血の匂い、そして贄がもたらすであろうこの世ならぬ「平穏」。その背徳的な魅力に、椿の心は完全に囚われた。


脳裏には手記に描かれた異様な儀式の情景が、まるで現実であるかのように鮮やかに浮かび上がる。地下室の壁の染みが次第に生々しい形を取り始めた。そこから何かが囁きかけてくる。それは静にしか聞こえないはずの、深山郷の深い闇からの呼び声とよく似ていた。


木像の悍ましい顔つきが、今や彼女には、この因習の深淵へと誘う慈悲深い導き手のように思えた。「これは…真実よ。全てが、ここに…」椿は呟いた。その声は震えていたが、疑いようのない確信に満ちていた。


綾子が妹を救うために合理的な真実を追い求め、静が自身の恐怖に怯え、狂気の淵を彷徨っていること。それら全てが、今の椿にとっては遠い世界の出来事だった。彼女の心は、この禁忌の儀式が持つ背徳的な魅力と、そこに秘められた謎に深く囚われ、他の二人の忠告にも耳を貸さなくなった。


彼女の瞳には次第に狂気じみた光が宿り始めていた。現実と幻想の境界は完全に曖昧になり、もはやどちらが本当の世界なのか、彼女自身にも判別がつかない。まるで自分がその儀式の一部であるかのように、異様な高揚感と使命感に満たされていく。


「穢れを鎮めなければ…古の贄を…」その強迫観念が、彼女の精神を支配し始めた。深山郷の闇は椿の心の中に深く根を下ろし、彼女は失われた真実を追い求めるうちに、自らもその闇の一部となっていく。


地下室の冷たい空気が彼女の肌を撫でる。それは恐怖ではなく、どこか懐かしい、受け入れるべきもののようだった。蝋燭の炎が、次の贄を求めるように揺らめいていた。


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