神経症の檻

深山郷の冷たい空気は、静の敏感な神経を針で刺すように苛んだ。朽ち木家屋敷の重苦しい雰囲気は、彼女のHSP気質を極限まで追い詰めていた。


綾子や椿には聞こえない、あるいは感じられない「何か」の気配が常に静の周囲に付き纏う。壁の向こうから微かに聞こえるすすり泣き。誰もいないはずの廊下をゆっくりと歩く足音。村人たちの視線に込められた隠された敵意と軽蔑。それら全てが、彼女の精神を少しずつ確実に蝕んでいった。


風の唸り声すら遠い昔に聞いた呪詛のように響き、草木の揺れる音も忍び寄る影の衣擦れに思える。夕食は喉を通らず、湯気の立った茶を震える手で啜るばかりだった。


ある夜、静は寝室で目を覚ました。どれほどの時間が過ぎたのか定かではない。闇に慣れた瞳が天井を捉えると、そこにぼんやりと浮かび上がった染みが人の顔に見えた。歪んだ口元は嘲笑っているかのよう。


ゾクリと背筋を這い上がった恐怖が、静の呼吸を奪う。息ができない。胸が激しく高鳴り、全身が粟立つ。誰かに見られている。嘲笑されている。その確信が彼女を激しいパニックへと突き落とした。


「いや、来ないで…!」


静は喘ぐような声を上げ、布団に顔を埋めた。幻覚だと理性は叫ぶ。だが皮膚を撫でるような冷気と、耳元で囁かれる不吉な声が現実を侵食していく。


物音に気付いた綾子と椿が、すぐに駆けつけた。薄暗い部屋の中で、静は布団にくるまり小刻みに震えている。


「静さん、どうしたの?大丈夫?」


綾子の声は冷静さを保っていたが、その表情には明らかな戸惑いが浮かんでいた。椿もまた心配と恐れがない混ぜになった目で静を見つめる。


「いるの、あそこに…!天井に…!笑ってるのよ、私を…!」


静は震える指で天井を指差すが、二人には何も見えない。そこにあるのはただ古びた天井の染みだけだった。


「誰もいないわ、静さん。疲れているのよ、きっと…」


綾子は静の肩にそっと手を置くが、静はその手を払いのけてしまう。触られることすら今は恐怖の対象だった。


彼女の訴える「声」や「視線」は二人には全く感知できない。理解されない孤独感。自身の訴えが妄想と捉えられる絶望感。それが静の心を深く抉った。


「嘘よ、嘘!聞こえるでしょう、あの声が!私を呼んでいる!」


静の目は血走り、涙で光っていた。まるでかつての妹、鈴が発していたような支離滅裂な言動。静は自身が狂気に引きずり込まれるのではないかという根深い恐怖に囚われた。妹の鈴と同じ運命を辿るのではないかと怯える。


その夜を境に、静は人との接触を避けるようになった。宿として借りた古民家の中でも、屋敷の薄暗い一室に引きこもりがちになる。カーテンを閉め切った部屋の片隅で、ただ膝を抱え、壁の染みを凝視している。


彼女の精神は、科学的根拠を求める理知と、見えない“何か”への根深い恐怖との間で激しく揺れ動いた。その境界線は曖昧になっていく。故郷の因習が生んだ恐怖。朽ち木家屋敷の禍々しい気配。そして自身の繊細すぎる感受性が、彼女の理性の砦を次々と崩していく。


静の心は深山郷に巣食う闇と同調し始め、現実と幻覚の区別がつかなくなっていった。薄暗い部屋の壁の染みが、次第に生々しい形を取り始める。そこから何かが囁きかけてくる。それは静にしか聞こえない、深山郷の深い闇からの呼び声だった。


その呼び声は静の耳元で甘く、あるいは忌まわしく囁き続けた。


「お前も、いずれこちらへ来る。拒んでも無駄だ」


静はその言葉に抗うことができなかった。壁の染みはもはや単なる染みではなく、生き物のように蠢き、自らを招き入れているように見えた。


綾子と椿は、静の変化を日々肌で感じていた。以前は怯えに満ちていた静の瞳から、次第に生気が失われ、代わりに底の見えない深い闇が宿っていく。食事にも手を付けず、問いかけにも空虚な返事を返すばかり。


まるで彼女の意識の大部分が、この世とは異なる場所に囚われているかのようだった。理知と狂気の境界はとうに溶け去り、静は深山郷の瘴気と、朽ち木家屋敷の古き因習が呼び覚ます影に、自ら身を沈めていく。


薄暗い部屋の奥、静はもはや窓の外の陽光すら拒むように、膝を抱え微動だにしなかった。彼女の口元から、時折理解不能な呟きが零れる。それは綾子たちにはただの無意味な音の羅列にしか聞こえなかった。しかし静自身にとっては壁の染みが語りかける秘密の言葉、あるいは天井を這う影が囁く禁断の教えだったに違いない。


椿は静の変わり果てた姿に、幼い頃に見た、あの藁にもすがる思いで迷信に頼る人々の姿を重ね合わせた。科学ではどうにもならない、目に見えない何かに侵食される恐怖が、彼女の胸にもひたひたと押し寄せてくる。


綾子は必死に医療知識と経験で現状を分析しようと試みた。しかし彼女の妹を蝕んだ病と同じ、どこにも根拠を見つけられない絶望的な現実に、その理性は崩れかかっていた。


やがて静は、薄ら笑いを浮かべながら誰もいない空間に向かって手を差し伸べた。まるでそこに誰かの手があり、それを掴もうとしているかのように。その瞳には、かつての知的な輝きは失われ、深山郷の底なし沼のような昏い光が宿っていた。


それはもはや、佐倉綾子たちが知る「月影静」ではなかった。残されたのは肉の抜け殻と、遠い世界に魂を囚われたかのような空虚な存在だけ。


この屋敷の壁の奥深く。あるいはこの村の土の下に、静の意識を奪い去る何かが潜んでいる。綾子の心には妹を救えなかった後悔と、今度こそこの無力感を打ち破りたいという強い焦燥感が渦巻いていた。このままでは静もまた「あちら側」に引き込まれてしまう。彼女は深山郷に漂う見えない悪意の存在を肌で感じ始めていた。


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