理知の脆き均衡

朽ちた屋敷の重い空気が、綾子の肺腑に鉛のように沈み込んだ。夕闇が迫り、窓の外は既に漆黒の闇に包まれる。宿として借りた古民家に戻っても、あの底知れぬ圧迫感から逃れることはできなかった。静は未だ顔色を失い、椿は震える手で茶を淹れる。三人の間に言葉はなく、ただ森の奥から聞こえる不気味な呻き声だけが、夜の帳を破って響いていた。それは人間のものでありながら、どこか獣じみた、おぞましい響きを帯びる。


綾子は無理にでも合理的な思考を巡らせようと努めた。「あれはきっと風の音か、老朽化した屋敷の軋み。人の声に聞こえるのは、耳が慣れないせいか精神的な疲労だろう」自分にそう言い聞かせても、背筋を這い上がる悪寒は消えない。時折視界の隅を掠める黒い影、突然室温が下がる奇妙な冷気。それらもまた、疲れと目の錯覚、この古い家の構造によるものだと、彼女は懸命に自身を納得させようとした。


しかし妹の病を通して得た「科学だけでは解明できない何か」の経験が、その合理性の壁に微かながら確実な亀裂を入れていくのを感じていた。彼女の理性は今、薄氷の上を歩くがごとく危うい均衡を保っているに過ぎない。


その晩、綾子は自室で、朽木家屋敷の古文書や深山郷の民俗伝承に関する記述を読み漁っていた。妹の鈴が最後に発した「朽ちた木」「禁忌」という言葉の真意を探るべく、文字の羅列に光を見出そうと必死だった。集中しようとすればするほど、森からの呻き声が頭に響き、耳鳴りのように煩わしい。


ふと、書物棚から「コトン」と小さな音が響いた。埃を被った書物が重みで落ちたのかと思い、目を向ける。しかしそこに落ちていたのは書物ではない。古びた木製の櫛だった。棚の上段に置いた記憶は全くない。一体いつから、なぜこんな場所に。


綾子はそれを拾い上げた。使い込まれて艶のある櫛だが、一部が欠けている。柄には蔦が絡まるように朽ちた木々が彫り込まれ、中央には複雑な紋様が刻まれていた。朽木家の家紋。明らかに鈴の持ち物ではない。


ひんやりとした木肌の感触が、綾子の指先から腕へ、そして全身へと広がる。まるで冷たい水に浸されたかのような悪寒。さらに、どこからともなく微かに甘く、土気混じりの伽羅の香りが漂ってきた。清らかであると同時にひどく重く、死を連想させるような異様な気配。綾子は思わず櫛を取り落としそうになった。これは人為的なものとは思えない。彼女の理性の砦が、ギシリと音を立てて揺らぐのが分かった。


「これはいったい…」


綾子の唇から掠れた声が漏れる。冷静であろうと努めるジャーナリストの視点と、超自然的な現象に直面した一個人の恐怖が、彼女の心の中で激しく衝突し始めた。その夜、綾子はほとんど眠れなかった。


翌日、彼女は朽木家屋敷の間取り図を広げ、再度精査を始めた。昨夜の櫛の件以来、綾子の胸には拭いきれない疑念と、抗いがたい探求心が渦巻いていた。するとこれまで見落としていたかのように、いくつかの不自然な線や印が目に飛び込んできた。書庫の奥、使用人部屋の裏、そして最も奥まった廊下の突き当たり。そこには通常の間取りにはない「隠された扉」や「通路」が存在するらしいことが示唆されている。そしてその一つが、昨日椿が指差した「禁忌の部屋」と呼ばれる場所に繋がっているらしい。図面はひどく摩耗し詳細は不明瞭だったが、隠された通路の先には、通常の家の構造ではありえない異様に広い空間が描かれているようにも見えた。


「やはり…」


綾子の喉がごくりと鳴る。村人が囁く断片的な伝承、「開けてはならぬ部屋」「死者の声が聞こえる」といった言葉が、図面と不気味なほど符合した。これまで理性で蓋をしてきた妹の病の原因に対する漠然とした不安、科学では説明しきれない「何か」への恐れが、堰を切ったように押し寄せてくる。


彼女の探求は、もはや科学的根拠を求める旅ではなく、自身の信念の根幹を揺るがす戦いへと変貌しつつあった。静は未だ屋敷の禍々しい気配に囚われ、青白い顔で自身を抱きしめている。椿は、恐怖を隠しきれない目で禁忌の部屋へと続く道を見つめながらも、その瞳の奥には抗いがたい好奇心の炎が揺らめいていた。そんな中で綾子だけが、必死に平静を装い理性の鎖を繋ぎ止めようとする。しかしその鎖も、今にもちぎれそうなほど脆いものとなっていた。


綾子は手に残る冷たい櫛の感触を思い出し、無意識のうちに指先を擦り合わせた。図面に示された「禁忌の部屋」の文字が、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。古文書の記述、村人の囁き、そしてあの櫛。全てが、一つの恐ろしい結末へと収斂していくかのようだった。


「…静さん、椿さん」


掠れた声で名を呼ぶ。二人はびくりと肩を震わせ、蒼白な顔で綾子を見つめた。特に静の目は、森から響く獣じみた呻き声が聞こえるたびに、一層その深淵を覗かせているようだった。


「この図面…見てください」


綾子は震える手で、屋敷の間取り図を指し示した。隠された通路と、その先に広がる未知の空間。二人の視線がその不自然な描画に吸い寄せられる。


「禁忌の部屋…まさか、本当に」


椿が息を呑んだ。その顔には恐怖と同時に、抑えきれない好奇心が入り混じる。


静は言葉を発せない。ただ震える手で自分の胸元を強く握りしめ、何かを堪えるように小さく呻いた。その耳には、他の誰にも聞こえないおぞましい声が響いているかのように見えた。


その時、誰もいないはずの奥の部屋から、微かな「カタ…カタ…」という音が聞こえた。木と木が擦れ合うような、規則的でありながら不気味な響き。三人の視線が音のする方へと一斉に向けられる。同時に、先ほど感じた伽羅の香りが再び鼻腔をくすぐった。今度はもっと近く、もっと濃厚に。まるで音に合わせて香りが揺らめいているかのようだった。


綾子の心臓が激しく脈打つ。それは風の音でも、家の軋みでもない。明らかに何かがそこで動いている。彼女の理性の鎖は、ついに音を立てて砕け散った。そこにはもはや、合理的な説明を拒む純粋な恐怖だけが残されていた。


「誰か、いる…」


椿が震える声で囁く。静はその言葉に耐えきれなかったのか、目を見開き、口から無音の悲鳴を上げながら、力なくその場に崩れ落ちた。


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