朽ちた屋敷の沈黙:禁忌の影、蠢く気配
翌朝、深山郷を包む濃密な霧がわずかに晴れ、白々とした光が空に滲み始めた。前夜の不気味な呻き声は止んでいたが、その残響が耳の奥にこびりつくような重苦しい空気が漂う。三人の女たちは重い足取りで古民家を出た。目指すは村の奥にひっそりと佇む朽木家屋敷だった。
朽ちた鳥居をくぐり、荒れた細道を登っていく。道は草木に覆われ、ほとんど獣道と化していた。しばらく進むと、突然視界が開け、巨大な屋敷のシルエットが目に飛び込んできた。かつて地方の名家として栄華を誇ったというその屋敷は、今は見る影もなく荒廃し、禍々しい沈黙に包まれている。和洋折衷の建築様式は時代の名残を感じさせるが、黒ずんだ木材、剥がれ落ちた漆喰、多くが砕け散った窓ガラスはただ荒涼としていた。門扉は完全に崩れ落ち、手入れのされていない庭には雑草が生い茂り、背の高い灌木が建物の土台を侵食する。深紅の蔦が壁面を這い上がり、まるで屋敷全体を血の血管のように締め付けているかのようだ。
綾子は大きく息を吸い込み、決意を固めて一歩を踏み出した。だが足元で朽ちた落ち葉や枝が不気味な音を立てるたび、彼女の合理的な思考の壁はわずかに揺らぐ。静は門をくぐった瞬間から顔色をなくし、両腕で自身を抱きしめるように震えていた。HSPである彼女には、この場所の過去の悲劇や、そこに澱む禍々しい感情が皮膚を粟立たせるほど鮮明に感じ取られているのだろう。
「嫌な匂いがする…」
静が掠れた声で呟いた。それはカビや埃の匂いだけではない。どこか血と錆、そして土気混じりの生々しい匂いだった。
屋敷の内部は外部からの光を拒むように薄暗く、埃とカビの匂いが空気を重くしていた。踏み込むたびに床板が軋み、その音が不気味なほど響き渡る。壁には古びた絵画がいくつも飾られていたが、顔料は色褪せ、視線は空虚で、どの瞳も闇を映すように見えた。綾子はまず手始めに屋敷の間取りを確認し、鈴が最後に発した「朽ちた木」「禁忌」という言葉と関連する手がかりを探そうと冷静に努めた。しかし視界の隅で揺らめく影、どこからともなく聞こえる物音に、理性は少しずつ削がれていく。遠くで何かが落ちる音がしたかと思うと、次の瞬間には、まるで誰かが歩くような微かな足音が聞こえてくる。それは風の悪戯だと自分に言い聞かせても、背筋を這い上がる冷たい感覚は拭い去れない。
椿は恐怖に目を伏せがちになりながらも、その視線は屋敷の古めかしい調度品や壁の絵画に惹きつけられていた。埃を被った西洋風のキャビネット、今にも朽ちそうな螺鈿細工の衝立、薄暗がりに鈍く光る鏡。それらすべてが、抑圧された長い歴史と、そこにあったはずの人間の営みを物語っているように見えた。椿の心には恐怖と同時に、抗いがたい好奇心が渦巻いていた。彼女はゆっくりと奥へと進み、廊下の突き当たりに厳重に閉ざされた一室があるのを見つけた。他の部屋とは異なり、その扉だけが異様に分厚く、錆びた頑丈な閂で固く封じられている。扉の隙間からはわずかにひんやりとした、しかしどこか生温かい空気が漏れ出しているようだった。
「これ…」
椿が震える指で扉を指差した。
「これが…禁忌の部屋…?」
静はその言葉を聞くと、まるで胸倉を掴まれたかのように息を詰まらせた。
「鈴が…鈴が言っていた…」
彼女の声は微かに震えていた。その部屋の存在が、三人の心に不確かな、しかし決定的な予感を抱かせる。屋敷の奥からは風ではない何かの囁きが聞こえる気がした。それは忘れ去られた過去が、闇の中で蠢き、蘇ろうとしているかのようだった。
綾子は扉に近づき、錆びた閂に手を伸ばそうとした。しかしその手はまるで氷水に浸されたかのように冷たく震えている。理性では説明できない、しかし確かな「何か」が、この部屋の向こうに潜んでいることを彼女の皮膚が本能的に感じ取っていた。深山郷の深い闇が今、目の前の朽木家屋敷の禁忌の扉の向こうから彼女たちを呼んでいるように思えた。それは妹の病の真の原因を探る旅の、まさしく核心へと続く道なのだろうか。
綾子の指先が冷たい錆に触れた。わずかなざらつきが皮膚を通して神経を刺激する。しかし彼女の手は、まるでそこに張り付いたかのように動かせなかった。見えない深淵が口を開けているかのような、底知れぬ圧迫感が全身を襲い、喉の奥がひどく乾く。
「綾子さん、待って…!」
静の切羽詰まった声が、薄暗い廊下に吸い込まれるように響いた。彼女は今にも泣き出しそうな顔で、綾子の背中を見つめている。その蒼白な表情は屋敷の禍々しい気配を吸収し尽くしたかのように、病的なほどに透明だった。
椿は扉の分厚い木目と閂を見上げ、息を詰めていた。
「もしかしたら、ただの物置部屋かもしれませんわ…」
彼女はそう呟き、自分に言い聞かせているようにも見えた。だがその声には微かな震えが混じっている。理性で恐怖を抑え込もうとする懸命な努力が、かえってその言葉を虚ろに響かせた。
その時、閉ざされた扉の向こうから、ごく微かな、しかしはっきりと聞こえる何かが擦れるような音がした。それは古びた木材が軋む音とは違う。もっと湿った、粘着質な響きだった。まるで何か生き物が湿った土を這いずるような、あるいは古びた布地がゆっくりと引き摺られるような、不快な摩擦音。
綾子の凍り付いた手から一瞬にして血の気が引いた。彼女は反射的に手を引っ込め、静と椿の方を振り返る。二人の顔はすでに恐怖に歪んでいた。その瞳には、同じ幻聴を聞いたとでもいうように、深い疑念と戦慄が宿っていた。
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