異界への入口:深山郷の冷たい眼差し

帝都を発って幾日もの旅路。馬車は揺れに揺れ、舗装されていない険しい山道を唸るような軋みを上げながら進んだ。窓の外は日を追うごとに文明の痕跡が薄れ、鬱蒼とした木々が空を覆い、昼日中だというのに辺りは薄暗いままだった。湿った土と古い葉の匂いが車内に満ち、佐倉綾子の合理的な思考も原始的な自然の圧力の前では頼りなく思える。


隣に座る月影静は窓の外の景色に顔を背け、小さく震える手を胸元で握りしめていた。葉山椿は時折不安げに静の横顔を盗み見るが、その瞳の奥にはどこか抗い難い好奇心の光が宿っている。


ようやく開けた視界の先に小さな集落が見えた時、安堵とともにそれ以上の緊張が三人を包んだ。深山郷、その名は既にただならぬ気配を纏っていた。


馬車が村の入口に差し掛かると、朽ちかけた鳥居があたかもこの地の境界を示すかのように立っていた。鳥居をくぐり抜けた瞬間、空気が一変したかのような錯覚に陥る。道の両側には煤けた木造家屋が肩を寄せ合うように立ち並び、窓は固く閉じられていた。土間からは焚き木の煙と生臭い匂いが混じり、独特の空気が漂う。


そして何よりも村人たちの視線が三人を突き刺した。畑仕事の手を止めた老翁、軒先で立ち尽くす老婆、道端で遊んでいたはずの子供たちまでもが一様に無表情で、しかしその瞳の奥には好奇と警戒が入り混じる不穏な光を宿していた。まるでこの地に迷い込んだ異物を値踏みするかのような、冷たく執拗な眼差し。


「宿、宿はどちらにございますか?」


綾子は努めて冷静な声で近くの村の男に尋ねた。男は口を開かず、薄汚れた指で村の奥を指し示す。その無言の圧力に綾子の心臓は不規則な鼓動を打った。静は周囲の微細な異変や村人たちの感情を過敏に察知しているのだろう。顔色は既に青白い。椿は恐怖に目を伏せながらも視線は村の奇妙な風景から離れない。彼女たちに向けられる視線は単なる好奇の目を越え、まるで自分たちの縄張りを侵された獣が獲物を狙うかのような粘着質な圧力を孕んでいた。


いくつかの家を訪ねたが、どこも「泊める余裕はない」「よそ者は困る」とつれない返事ばかり。村の閉鎖性は綾子の想像をはるかに超えていた。


日が傾き始め焦りが募る中、ようやく村の最も奥、朽木家屋敷へと続く薄暗い道沿いに一軒の古民家が宿として三人を迎え入れた。しかしその宿は既に禍々しい気配を漂わせている。茅葺き屋根は傷み、木製の壁は長年の風雨に晒され黒ずんでいた。戸を開けると黴と埃の匂いが鼻をつく。奥から出てきた宿の主人は生気のない眼差しで招き入れた。その目は村人たちと同じく底知れぬものを隠しているようだった。


三人が通された部屋は、窓から見える森が不気味なほど近く、昼間でも薄暗くひんやりとした空気が漂う。


夜が訪れると深山郷は全く別の顔を見せた。宿の周囲を包み込む闇は帝都の夜とは比べ物にならないほど深く重い。虫の声さえもここではどこか異質に響く。そして森の奥から奇妙な音が響き始めた。それは風が木々を揺らす音とも動物の鳴き声とも異なる、どこか人間じみた抑えきれない呻き声のよう。時折低い唸り声のようなものが混じり、耳元で囁かれるような錯覚を覚えるほどだった。


綾子は合理的な思考でそれを「風の音」「野生動物の声」と分析しようと努める。しかし妹を襲った原因不明の病、そして鈴の錯乱を目の当たりにしてきた経験が彼女の理性の壁を少しずつ蝕んでいた。静は部屋の隅で膝を抱えひどく怯える。「鈴…鈴の声が聞こえる…」と掠れた声で呟く静の耳には、その不気味な音がさらに明確な幻聴として響いているようだった。


椿は布団の中で身を固くしていたが、その大きく見開かれた瞳は闇の奥から響く音に、恐怖とともに抗い難い魅力を感じているようだった。彼女の心は理性の抑えを振り切り、深淵へと引きずり込まれようとしていた。


深山郷は文明の光が届かぬ古の闇が色濃く残る異界の入口だった。ここでは常識が通用しない。見えない“何か”がこの山全体を覆い尽くしている。三人の女たちは互いに言葉を交わすことなく、それぞれの恐怖と抗い難い好奇心に囚われ長い夜を過ごすことになった。眠りを拒む奇妙な音は朝が来るまで止むことはなかった。


夜が明け、森の奥から響いていた奇妙な音は、ようやくぴたりと止んだ。しかしそれは静寂が訪れたというよりは、耳鳴りのように脳裏に残る残響と、張り詰めた疲労感が部屋を満たしただけだった。障子から差し込む朝日は昨日までの帝都の光とは全く異なる、鉛色をした冷たい光が三人の顔を青白く照らした。


綾子はゆっくりと目を開けた。全身に倦怠感がまとわりつき、頭の奥で鈍い痛みが脈打つ。昨夜の「呻き声」は、どれほど理性を働かせても、ただの動物の声や風の音ではなかったと認めざるを得なかった。隣に横たわる静は浅い呼吸を繰り返し、目元にはくっきりと隈が刻まれている。椿はうつろな目で天井を見つめ、微かに震える唇は何かを呟こうとしているかのよう。


「…大丈夫?」


綾子は掠れた声で静に問いかけた。静はゆっくりと顔を綾子へ向けたが、瞳にはまだ夜の幻覚が残るかのように焦点が定まらない。「鈴が…鈴が呼んでいる…」静は辛うじてそう呟き、再び顔を背け布団の中に身を埋めた。


椿はゆっくりと体を起こし、窓の外に広がる薄暗い森を見つめた。その眼差しには昨夜の恐怖の残滓と、それ以上の深い探求心が燃え上がっていた。「あそこには、何かがある…」彼女は震える声で呟き、森の奥を指差す。その指先は吸い寄せられるかのように、深山郷の禁断の領域へと向かう。


朝食は宿の主人が持ってきた塩辛い味噌汁と黒ずんだ米飯だった。無言で食事を済ませる三人を見つめる宿主の視線は、昨日よりも感情が読めず、底知れぬものを感じさせる。


「あの…この村で、朽木家という家をご存知ですか?」


綾子は意を決して尋ねた。宿主は箸を止めることなくゆっくりと顔を上げた。その目は一瞬鋭い光を宿し、すぐに虚ろな表情に戻る。宿主は言葉を発さず、再び無言で、明らかに警戒の色を滲ませながら宿の裏手を指差した。その方向はちょうど昨夜椿が指差した森の奥、村の地図で朽木家屋敷が記されていた場所と一致する。


宿を出ると村は朝だというのに、昨夜の闇を引きずっているかのように薄暗く重苦しい空気に包まれる。村人たちの視線は昨日にも増して冷たく敵意すら感じさせた。しかし三人はもう引き返すことはできない。朽木家屋敷へ続く細く険しい獣道を歩き出す。


道は次第に森の奥深くへと入り込み、木々の枝が頭上を覆い隠すため太陽の光はほとんど届かない。足元には湿った腐葉土が堆積し、独特の土の匂いに微かに鼻につく血生臭いような匂いが混じり合う。


静は時折立ち止まり耳を澄ます。何かの声が聞こえるのか、あるいは聞こえないものに怯えているのか、表情は極度に蒼白だ。椿は恐怖に顔を歪ませながらも、一歩一歩足を進める。彼女の心は理屈を超えた「何か」に導かれているかのよう。綾子は自身の鼓動が耳元で大きく響くのを感じながら、前へ進むしかなかった。この森の奥に鈴を苦しめる謎の鍵がある。そう信じるしかなかった。


やがて木々の間から古びた石垣が見える。その向こうに黒ずんだ屋根と苔むした門が薄っすらと姿を現した。それはこの深山郷の、そして三人の運命を分ける禍々しい異界の門だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る