深山郷への誘い:抗いがたい闇の魅力

「鈴はきっと…あの場所に囚われているんです。あの、朽ちた鳥居の奥、朽木家の屋敷に…」


月影静の嗚咽は止まらなかった。その声は深山郷の湿った土から湧き出るかのように重苦しい。綾子の腕を掴む指の力は、その細い体からは想像もつかないほど強かった。雨音は、二人の会話を遮るように執拗に降り続く。


綾子は静の震える肩を抱き寄せながら、自身の心臓が不規則な鼓動を刻むのを感じていた。ジャーナリストとしての冷静な眼差しは、目の前の友人の絶望を前にひどく鈍く霞む。


幼い頃、一度だけ足を踏み入れた深山郷。あの村の異様なまでの閉鎖性と、朽ちた家屋敷から感じた言い知れぬ禍々しさが、鈴の言葉や静の訴えと重なった。綾子の合理的な思考に深く亀裂が入る。それはまるで、長年信じてきた堅固な壁に鋭利な刃物が突き立てられるような感覚だった。


「精神的な病だけでは片付けられない何かがある。綾子さん、あの村は生きています。見えない何かが、あの山全体を覆い尽くしている…」


静の言葉は、まるで熱に浮かされたかのような切迫感を帯びていた。


その時、再びアパートの扉が叩かれた。今度は先ほどよりも控えめだが、どこか決意を秘めたような音。綾子が扉を開けると、そこに立っていたのは葉山椿だった。


雨に濡れた椿は青白い顔をして、不安げに目を伏せている。


「静さん…無事ですか? 鈴さんのこと、聞きました…」


椿の声はか細く、彼女自身も怯えているようだった。だが、その瞳の奥には、どこか抗いがたい好奇心の光が宿っているように見える。


静は椿の顔を見て、張り詰めていた心が僅かに緩んだようだった。


「椿さん…」


椿は静の隣に座ると、二人の手を取り、絞り出すように言った。


「私…鈴さんのこと、気になって。このところずっと、悪い予感がして…」


椿は繊細で感受性が強い。他人の感情や場の空気を敏感に察する気質だ。静が語る鈴の不可解な症状と、深山郷の因習に関する話に、彼女は戦慄を覚えているのが見て取れた。しかし同時に、理性では説明できない「何か」への奇妙な惹きつけられ方も感じられる。


幼い頃、自身も原因不明の病に苦しんだ椿は、科学では割り切れない世界の存在を心のどこかで知っている。その経験が、彼女を迷信やオカルトを怖れる一方で、その深淵を覗き込みたいという矛盾した感情へと駆り立てるのかもしれない。


綾子は、椿のそんな複雑な感情を敏感に察した。そして、その感情が、彼女自身の心の奥底に眠る、妹を救えなかった後悔と、真実を知りたいという探求心と重なるのを感じた。


静の絶望と、椿の危うい好奇心。二人の友人の想いが、綾子の中の最後の理性的な壁を押し崩していく。


「静さん、椿さん…分かりました。私…深山郷に行きます」


綾子の声は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。だが、その瞳には強い決意の光が宿る。ジャーナリストとしての探究心だけではない。妹の病の原因を探るという個人的な願い。そして、大切な友人を、目の前の闇から救い出したいという強い連帯感。それらが、彼女にこの危険な旅を決意させたのだ。


静は綾子の言葉に震える手で綾子の手を強く握った。椿もまた、不安げな表情の中に、かすかな希望を見出したかのように小さく頷く。


三人の女たちは互いの顔を見合わせ、言葉なくとも、この先待ち受けるであろう未知なる恐怖へと共に立ち向かう決意を共有した。帝都の喧騒を離れ、文明の光が届かぬ山奥の集落へ。旅の準備を始める彼女たちの背後で、雨はなおも降り続き、まるで世界の理不尽さを嘆くかのような音を立てていた。


この旅が、単なる失踪者の捜索ではないこと。想像を絶する、古くからの闇との対峙であることを、彼女たちはまだ知る由もなかった。


翌朝、雨はぴたりと止んでいた。しかし鉛色の空は相変わらず重く、まるで大気の底に澱んだ不安が充満しているようだった。


綾子は重い瞼をこすりながら身を起こした。胸中には、昨夜決意した深山郷行きという言葉が確かな重みを持って横たわっている。


まず、勤め先の病院に当分の間の休暇届を出す手配をしなければならない。それから、旅に必要なものを最小限にまとめること。医薬品、記録用の手帳、そして護身用の何か。彼女の頭の中で、現実的な準備と未知への漠然とした恐怖とが入り混じっていた。


静は、鈴が残したという不気味な絵や意味不明なメモを広げ、食い入るように見つめている。一方、椿は静の隣で膝を抱え、窓の外をじっと見つめていた。その表情には、迷信を恐れる理性と、そこから目を離せない好奇心とが複雑に混じり合う。三人の間には、言葉はなくとも、否応なく共有された決意と、そこから生じる途方もない重圧が漂っていた。


その日のうちに綾子は必要な手続きを済ませ、最小限の荷物をまとめた。


翌日の早朝、帝都のざわめきがまだ薄い時間帯。彼女たちは静のアパートを出た。西へ向かう汽車の切符を握りしめ、三人の視線はまだ見ぬ深山郷の山々へと吸い寄せられていく。遠ざかる都会の風景は、まるで理性と常識の世界が置き去りにされていくようだった。


列車はゴトンゴトンと鈍い音を立て、ひたすら西へと向かった。窓の外を流れる景色は、帝都を離れるごとにその色彩を失っていく。人の手が入らぬ山林や、岩肌がむき出しになった渓谷へと変貌する。時折古びた駅舎に停車しても、降り立つ者は少なく、乗り込む者はほとんどいなかった。


綾子は座席の硬い感触を確かめながら、旅路の果てに何が待ち受けるのか静かに自問した。


隣の静は心ここにあらずといった様子で、虚ろな眼差しで車窓の外を見つめている。その手は、鈴が遺したというスケッチブックを強く握りしめていた。


向かいの席では椿が、膝に置いた本を開いたり閉じたりと落ち着かない。彼女の視線は時折静のスケッチブックへと引き寄せられ、すぐに窓外の鬱蒼とした森へと移る。深山郷が近づくにつれて、空気は一層重く湿気を帯びてくるように感じられた。


やがて列車は深い山間を縫うように走った。薄暗いトンネルを抜けるたびに、まるで別世界へと誘われるような錯覚に陥る。文明の光が途絶え、古き因習が息づく場所へと、彼女たちは否応なく吸い寄せられていく。


数時間後、汽笛が大きく鳴り響き、列車は小さな駅のホームへと滑り込んだ。そこはすでに山の匂いが色濃く漂い、人影まばらな、時間の止まったような場所だった。


深山郷へ向かうには、ここからさらに徒歩か、数少ない村の馬車に頼るしかない。綾子は荷物を下ろし、静と椿に顔を向けた。二人の瞳には、希望と絶望、そして抗いがたい恐怖が複雑に交錯していた。

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