月の影からの報せ:消えた妹の幻影
雨は執拗に降り続いていた。大正十四年の帝都の空は鉛色の雲に覆われ、街の喧騒もどこか湿った重みに沈む。佐倉綾子のアパートの窓を叩く雨粒の音は、さながら無数の小石が投げつけられているかのようだった。
ジャーナリストとしての原稿作業も手につかず、綾子はぼんやりと窓の外の霞んだ街並みを眺めていた。あの深山郷の記憶が、昨夜からずっと頭の片隅にこびりついて離れない。理性では説明できない郷愁。そして胸の奥底を這いずるような、不気味な予感が付き纏っていた。
その時、アパートの扉が外の雨音にも負けないほど激しく叩かれた。ドンドン、ドンドン。焦燥に満ちた音が響き、綾子の心臓を跳ね上がらせる。こんな天候に、いったい誰が。
用心深く扉を開けると、そこに立っていたのは旧知の月影静だった。
静の姿に、綾子は息を呑む。いつもきっちり整えられた着物も乱れ、髪は雨に濡れて頬に貼り付いていた。土気色の顔には深い疲労と、抑えきれない怯えが張り付いている。その瞳は狂気じみた光を宿し、まるで嵐に打ち付けられた小鳥のように震えていた。
「静さん、一体どうなさいました?こんな雨の中を…」
綾子の問いかけにも、静はすぐに答えられない。ただ唇を震わせ、か細い嗚咽を漏らすばかりだ。綾子は静を中に招き入れ、まずは落ち着かせようと濡れた肩をそっと抱き寄せた。冷え切った身体に、綾子は自分の体温を分け与えるように手を握る。
ようやく落ち着きを取り戻した静は、絞り出すような声で話し始めた。
「鈴が…鈴が、消えたんです…」
綾子の脳裏に、静の妹、月影鈴の姿が浮かんだ。内向的で物静か。どこか儚げな美しさを持つ少女だった。綾子たちが幼い頃に深山郷を訪れた際、村の子供たちの中で、鈴だけがなぜか彼女に懐いたことを覚えている。
「消えた?一体どういうことですか」
綾子は動揺を隠し、努めて冷静に問う。ジャーナリストとしての経験が、彼女に客観的な視点を保つよう命じていた。しかし静の顔に浮かぶ絶望は、綾子の冷静さを少しずつ侵食し始める。
静は震える手で茶碗を握りしめながら語り続けた。
「数ヶ月前から…鈴の様子がおかしくなったんです。最初は夜中にうなされることが増えて…次第に、昼間でも誰もいない場所を見て何かを怯えるようになって…」
彼女の声は途切れ途切れだったが、語られる内容は綾子の心を締め付けた。
「幻覚に苛まれるようになって。『あれがいる』とか『朽ちた木が禁忌が』と、意味不明なことを呟いて錯乱するんです。帝都の医者にも診せましたが、誰も病名を特定できなくて…」
「幻覚…そして、『朽ちた木』『禁忌』…ですか」
綾子の脳裏に、先日カフェーで書き終えた原稿のタイトル「現代社会における迷信の再興とその影響」が、皮肉にも蘇る。そして幼い頃に訪れた深山郷の記憶。朽ちた鳥居、禍々しい信仰…それらが、鈴の不可解な症状と妙に結びついていく感覚に襲われた。
静は身を乗り出すようにして綾子に訴えかける。
「鈴は、あの場所を…深山郷の朽木家屋敷の『何か』を口にしていました。私たちが幼い頃に、一度だけ足を踏み入れた、あの荒れ果てた屋敷で…何か、鈴だけが見てしまったのかもしれません。あの村の因習…昔から言い伝えられてきた、開けてはならない『禁忌の部屋』のことまで…」
静の言葉尻は恐怖に歪んでいた。彼女の瞳には、見えない“何か”への怯えが深く宿っており、その感情は綾子にも否応なく伝播していく。
綾子は、理性的に状況を判断しようと努めた。鈴の症状は、おそらく極度の精神的な病だろう。深山郷での記憶が、心の奥底にトラウマとして残り、それが都会での生活のストレスと結びついて、幻覚や妄想を引き起こしているのかもしれない。
「静さん、まずは落ち着いてください。鈴さんの症状は、精神的なものとして…」
しかし綾子の言葉は、静の震える声にかき消された。
「精神的なもの…だけではない。綾子さん、あの村には、私たちには理解できない“何か”がある。鈴は、それに触れてしまったのかもしれない。そして、ついには一昨日、家から姿を消してしまったんです。どこを探しても見つからなくて…」
静は泣き崩れ、その手は綾子の腕を強く掴んだ。その指先から伝わる体温は、冷え切っているはずなのに、綾子の心には熱い不安の種を植え付けていく。
綾子の胸の奥で、確かな亀裂が生じる音がした。合理的であろうとする意思と、目の前の現実が突きつける非合理な断片。幼い頃に感じた深山郷の「何か」の気配が、今、静の絶望と鈴の失踪という形で、現実の世界にまで侵食してきたかのように思えた。ジャーナリストとしての探究心は、理性と感情の狭間で、新たな方向へと引きずり込まれようとしている。
静の言葉の端々に散りばめられた「朽ちた木」「禁忌」「深山郷の朽木家屋敷」といった単語が、綾子の脳裏に強く焼き付いた。そして、妹の病の原因を探るという、彼女自身の心の奥底に眠る個人的な願いが、再び強く掻き立てられるのを感じていた。雨音は一層激しくなり、まるで世界の終わりを告げるかのようだった。
綾子の胸に深い共感と、そして何よりも自分自身の過去が重なり合うような、冷たい予感が宿る。
「静さん、顔を上げて」
綾子は静の肩をそっと抱き、その震える体をゆっくりと起こさせた。
「鈴さんを見つけましょう。あなたが話してくれたこと…深山郷の朽木家屋敷の『何か』が原因だとすれば、そこから全てを辿っていきましょう」
合理的判断を下そうと努めていたはずの綾子の思考は、もはや迷信や因習といった非合理な要素を排除できなかった。むしろ、妹の病の真の原因を探るという、彼女自身の心の奥底に眠る個人的な願いが、この怪奇な事件と強烈に結びつき始めているのを感じていた。ジャーナリストとしての探究心も、その個人的な執念と相まって、今や危険なまでに研ぎ澄まされようとしている。
雨は相変わらず執拗に窓を叩き続けていたが、綾子の耳には、まるで遠い昔の記憶が呼び覚まされるような、奇妙なさざめきが混じって聞こえるような気がした。
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