朽ち木の咆哮 ―大正禁忌考―
月雲花風
帝都の光と、遠い郷愁の影
大正十四年の帝都東京。文明開化の華やかな光が、煉瓦造りのモダンな建築群や、舶来品を並べたショーケースを明るく照らしていた。銀座の大通りを行き交う人々は、最新の流行に身を包み、未来への希望に満ちた顔つきをしている。
しかし、その光の届かぬ帝都の片隅には、古き日本の陰影が深く息づく。西洋の合理主義が浸透しつつも、人々の意識の底には神仏や迷信が絡みつき、新しい時代がもたらす歪みが、見えない不安となって街に漂っていた。
賑やかなカフェー「花月」の窓際。珈琲の香りとモダンな音楽、そして談笑が織りなす喧騒の中、佐倉綾子はひたすら原稿用紙に向かっていた。インクの染み一つない純白の紙の上を、彼女の指先が滑らかにペンを走らせる。
書かれていくのは、帝都を覆う社会の不条理を鋭く切り取り、客観的な事実に基づいた冷静な論考だ。「現代社会における迷信の再興とその影響」というタイトルが、彼女の知的な好奇心と、ある種の焦りを如実に示していた。理性と論理を重んじる筆致は、新進気鋭の女性ジャーナリストとして多くの読者の信頼を得ている。
妹の病の原因が不明であること、そして科学では解明できない「何か」を経験したことが、彼女をこの題材へと駆り立てていた。「この国の進むべき道は、常に合理性と科学の光によって照らされるべきだ。しかし、その光が強ければ強いほど、深い闇が生じるのもまた事実である――」
そんな一文を書き終え、綾子は一瞬、思考を止めた。
窓の外では、夕闇にガス灯の柔らかな橙色の光と、新しく導入された電灯の無機質な白い光が混じり合い、曖昧な境界を描いている。その淡い光景が、ふと遠い記憶の扉を叩いた。
まだ幼い頃、家族旅行で訪れた山間の集落、「深山郷」の記憶だ。帝都の喧騒とは隔絶され、時が止まったかのような場所。鉄道の便もなく、か細い山道を幾日もかけて辿り着いた村は、まるで文明の恩恵を拒むかのように、独自の時間を刻んでいた。
村の入り口に立つ朽ちかけた鳥居、山肌に張り付く粗末な家々。そして、どこか冷たい視線でよそ者を見る村人たち。彼らの目は、帝都の人間とは異なる、古代から続く因習に縛られたかのような、得体の知れない光を宿していた。子供心にも、そこは帝都とは全く異なる「何か」に満ちていた。
特に印象的だったのは、夜の闇の深さだ。街灯などなく、空を覆う木々の影と、わずかな月明かりだけが頼りだった。森の奥からは、得体の知れない動物の声とも誰かの呻き声ともつかぬ奇妙な音が響く。それが村人たちの歌うような、あるいは呪文のような祈りの声と不気味に混じり合っていた。
篝火の橙色が、夜の闇に蠢く影を一層禍々しく見せる。人々は太古からの因習と、土地に根付いた禍々しい信仰の中で生きていた。そこで交わされる言葉は、古い方言と呪術的な響きを含み、綾子には理解できない畏怖の念を抱かせた。
あの時感じた、肌を粟立たせるような不気味さと抗いがたい畏怖。そして、得体の知れない「何か」への確かな予感。その記憶が、なぜ今、文明開化を謳歌する帝都のカフェーでこれほど鮮やかに蘇ったのだろう。
綾子の心には、合理では説明のつかない微かな不安と、どこか郷愁にも似た感情が湧き上がる。しかしそれは安らぎをもたらすものではない。むしろ、妹を救えなかった深い後悔と、いつか真実に辿り着きたいという強い願いが呼び覚まされたかのような、漠然とした予感に近かった。
深山郷の閉鎖的な空気、土着の信仰、そして見えない“何か”の気配。それら全てが、彼女が探し求める「真実」と結びついているような気がしてならなかった。
ペンを置き、綾子は深く息を吐いた。熱い珈琲を一口含み、その苦みが喉を潤す。再び窓の外に目をやった。
街の光は確かに明るくなった。カフェーの内部はモダンな装飾で統一され、行き交う自動車のヘッドライトは未来を象徴しているかのようだ。しかし、その光が届かない場所、あるいは光によってかえって際立つ影の部分が、昔よりも増えた気がした。貧困、犯罪、妖しい文化が息づく裏路地。人々の心に巣食う不安や欲望。時代に取り残されたかのような、見えない“何か”の気配。
それらが、都市の喧騒の中に確かに潜んでいる。綾子の胸に、深山郷の夜の闇が重なった。彼女は知らず知らずのうちに、遠い山奥の古い因習と、そこに眠る闇の存在を、この帝都の喧騒の中に予感していた。
それは、合理的な思考を重んじる彼女の常識を、静かに、しかし確実に揺るがし始める。文明の進歩とは裏腹に、世界はより複雑で深遠な謎に満ちていく。その謎が、冷静な思考の牙城を今まさに侵食し始めているかのようだった。彼女のジャーナリストとしての探求心は、もはや単なる社会批評に留まらず、自身の内なる闇、そしてこの世界の根源的な謎へと向かい始めていた。
綾子は書きかけの原稿用紙をそっと押しやった。そこに書かれた、合理と科学を信奉する論考は、今の彼女の心にはひどく薄っぺらく感じられる。表面的な社会の歪みを暴くだけでは、もはや真実には届かない。
そう直感した瞬間、遠い深山郷の、あの禍々しい祈りの声が幻聴のように微かに蘇った。妹を救えなかった無力感と、あの村で感じた得体の知れない“何か”の気配が、今、確かな輪郭を帯びて心に迫る。
ジャーナリストとしての探求心は形を変え、個人的な使命へと変貌を遂げようとしていた。彼女が本当に書くべきは、この帝都の裏側に潜む見えない闇そのものだ。あの村に伝わる因習、そして妹の病の根源。それら全てが、ひとつの大きな糸で繋がっているのではないかという疑念が、綾子の冷静な思考を侵食し始める。
彼女は手帳を取り出し、白紙のページに「深山郷」「土着信仰」「精神の病」と力強く書き記した。その文字は、彼女自身の進むべき道を示す道標のように見えた。
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