ミチカ ~未知なる香りの少女~

柴田 恭太朗

ミチカとの出会い

 私は、いつも匂いを探していた。

 それは私だけに限らない。調香師という職業は、いつだって新しい香りの素材ひらめきを求めているものだ。


 今日みたいな写真展のギャラリーは、私の目的にはうってつけの狩り場。人と人との距離が近く、誰もが壁に意識を向けている。背後からそっと香りを嗅いでも、不審がられることはまずない。万一、気配に振り向かれたとしても、私は視線を少し上げてパネルに移すだけでよい。振り返ったターゲットが背後に発見するのは、熱心に写真を鑑賞するメガネの地味女――つまり、私――だけだ。


 このスペースでは視線こそ主役。嗅覚を凝らす者が混じっているとは誰も気づかない。


 仕事帰りの私はギャラリーの入口で一度立ち止まり、メガネの位置を直した。女性には珍しいと言われる度の強いレンズが、白い壁とモノクロの写真パネルとを過剰かつ明瞭に切り分ける。会場には弦楽四重奏のが低く流れ、パンプスの靴音は弾力性のある紅いカーペットに吸い込まれていく。


 鑑賞者たちの視線と、私の嗅覚を邪魔するものはない。

 私は写真をながめるていを装いながら、人々の背後をすり抜けてゆく。

 探しているのは、香水でも体臭でもない。

 未知の素材ひらめきだ。


 写真の前で立ち止まった数秒間、私は自然な動作で距離を詰め、ゆっくりと息を吸い込む。眼はパネルに向けたままだ。誰にも気づかれない。ここは、そんな背徳が許されている空間なのだ。


 年配の渋い男。――違う。

 香水をつけすぎた中年女性。――違う。

 若いカップル。――ダメ、平凡。


 三枚目のパネルの前で、私の足が止まる。


 空気の質が、変わった。

 ノド元に期待が塊となってセリ上がってくる。苦しいくらいに。


 香りというより、空気が特別な意味を帯びて鼻腔を刺激していた。それは甘くも苦くもない。ミントに似た爽やかな香り。胸の奥に直接触れてくる。調香師として積み重ねた記憶リストにない未知の香り。


 目の前に立っているのは、小柄な少女だった。

 短く切りそろえられた艶やかな黒髪からのぞく白いうなじ。十代だろうか。


 彼女写真を見ていなかった。

 壁でも作品でもなく、人の流れが通る空間を見つめているようだ。


 私は彼女の背後に立ったまま、もう一度息を吸った。


 間違いない。

 探し求めていた匂いは、ここにあった。


 不意に少女が振り返る。


「……匂い、気になるでしょ?」

 透き通る静かな声だった。

 責めるでもなく、驚くでもなく。まして怒るでもなく。


 なぜ分かったのだろう。

 私は返事をする前に、またメガネのフレームに触れていた。ここでピントを合わせても、模範解答が見えるはずないのに。


「ええ……とても」

 我ながら正直にすぎる返答だったと思う。

 それでも彼女は気にした様子もなく、ほがらかに笑った。


「それよく言われる。でも何もつけてないの、ホントに」


 その瞬間、香りがわずかに変わった。

 私はぞっとした。それは香水が起こす変化じゃない。もっと動物的なもの、少女が言うように、彼女自身が発している香りかも知れない。

 動揺を隠すように口を押し開く。


「調香師なんです」

 肩書きを盾にしないと、これ以上踏み留まれなかった。

 私が名刺を差し出すと、少女は一瞬だけ驚いた顔をした。

 そして、値踏みするように私を見つめる。


「調香師さん……じゃあ、これ何の香りか分かる?」

 少女は自分の首筋をてのひらで扇いでみせる。

 香りがフワッと私の鼻孔に届いた。


「何かしら、市販の香水じゃないわね。言ってみればフェロモンのような」

「香りのプロでも分からないか」

 挑戦的な物言いは、少女の雰囲気に似合っていた。


「そうね、プロとして恥ずかしいことにね。もしできたら……できればでいいんだけど、あなたの香りを分析させてもらえないかしら。少しばかり協力費も出せるし」


 小柄な少女は私の名刺に眼を落としてから、顔を上げて微笑んだ。

「いいよ、あたしも匂いに興味アリだから」


 彼女は自ら「ミチカ」と名乗った。それがどのような字で書くのか知らないが、私は「未知香」と漢字を当ててみる。それは恐ろしくイメージに合うと得心した。


 互いの連絡先を交換すると、まだ写真を見ていくというミチカに手を振り、私はギャラリーを後にした。

 初めから写真には興味がないのだ。


 ミチカを私の職場――調香室ラボ――に案内したのは、次の土曜日のことだった。

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