第4話 再誕の鼓動、あるいは世界最速の魔術

 聖剣の柄を握りしめた彩人の視界から、色が消え、音がいなくなり、ただ一点――汐里へと振り下ろされるトロールの巨大な足だけが、鈍重なスローモーションのように映し出されていた。


 心臓の鼓動が、耳を劈(つんざ)くほどの爆音で鳴り響く。ドクン、ドクンと、血管の隅々まで熱い何かが巡っていく。それは血液などではない。かつて、自分がトラックに立った時に感じていた、全身を貫く全能のエネルギーそのものだった。


『魔術とは、記憶の再現である』


 脳裏に再度響くのは、いつか聞いた退屈な授業の一節。だが、今の彩人にとってそれは真理だった。彼が呼び覚ますのは、ただの魔力ではない。二年前、あの日、あの瞬間、世界で誰よりも速く風を切り裂いていた、自分自身の「最高速」の記憶。


(思い出せ……。地面を蹴る瞬間の、あの硬質な手応え。全身の筋肉が連動し、重力から解き放たれるあの快感を!)


 彩人の右膝が、バチバチと青白い火花を散らした。イップスという名の精神的な鎖が、少年の激情によって焼き切られる。財団が「絶対に抜けない」と豪語し、大理石に根を張っていた聖剣が、彩人の意志に呼応して歓喜の声を上げるように震えた。


「――抜けっ!!」


 叫びと共に、彩人は剣を引き抜いた。抵抗は、無かった。千年の眠りを守っていた岩盤が、まるで熟した果実が枝から離れるかのように、あっさりと聖剣を解放したのだ。


 トロールの足が、汐里の体まであと数センチに迫っていた。魔物は、勝利を確信して醜い笑みを深く刻む。


 だが。


 ――「加速ブースト」。


 彩人の口から漏れたのは、無意識の、けれど確かな『真名』だった。次の瞬間、ステージの上にいたはずの彩人の姿が、掻き消えた。


 衝撃波が遅れてやってくる。彩人が踏み切ったステージの大理石が、その脚力に耐えきれず粉々に砕け散った。光の尾を引き、広場を一陣の烈風が駆け抜ける。


 トロールの三つの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。振り下ろされていた足が、自身の体重を支えるための軸足ごと、真横から凄まじい衝撃を受けて弾き飛ばされたのだ。


「……成瀬には、触れさせない」


 低く、けれど芯の通った声。土煙の中に、一人の少年が立っていた。汐里の体を守るようにその前に立ち、手にした白銀の剣を静かに構える姿。折れていたはずの肋骨も、動かなかったはずの膝も、溢れ出す膨大な魔力によって強制的に繋ぎ止められている。


 トロールは、姿勢を崩しながらも激昂し、丸太のような腕を彩人目掛けて振り回した。風を切る音が、爆音となって周囲を揺らす。だが、彩人は動かない。


(遅い)


 彩人の目には、トロールの剛腕さえも、止まっているかのように見えていた。かつて彼が、誰よりも速く走っていた時。並走するライバルも、周囲の景色も、すべてが止まって見えたあの「境地(ゾーン)」。魔術によって再現された記憶は、彼に超常の反射速度を与えていた。


 彩人は一歩、前へと踏み出した。ただの歩法ではない。一歩の中に、何百、何千という「加速」の記憶を詰め込んだ神速の踏み込み。


「おおおおおおおッ!!」


 白銀の閃光が、トロールの巨躯を十文字に切り裂いた。肉を断ち、骨を砕く感触が剣を通じて伝わってくる。現代の兵器さえ弾き返す魔物の皮膚が、紙細工のように容易く両断された。


「ギ、ガアァァァァァァァッ!!」


 胸を十文字に切り裂かれたトロールが、噴き出す黒い返り血を撒き散らしながら絶叫した。だが、魔物はまだ死んでいない。傷口を魔力で強引に塞ぎ、狂乱に満ちた瞳で彩人を睨みつける。その右拳が、山崩れのような質量を伴って振り下ろされた。


「――終わりだ」


 彩人は冷徹に告げた。彼の中に流れるのは、かつて世界の頂点を目指した「韋駄天」の記憶。その純粋な加速の衝動を、聖剣が白銀の刃へと変換していく。


 彩人の姿が、再び消えた。物理的な移動ではない。観測者の視覚が追いつけないほどの、絶対的な速度の体現。


 トロールの拳が地面を叩き、衝撃波が広場を揺らした瞬間――彩人はすでに魔物の背後、その頭上へと跳躍していた。空中で体を捻り、すべての魔力を剣尖へと集束させる。


「はああああああああッ!!」


 一閃。白銀の光が、トロールの太い首を吸い込まれるように通り抜けた。


 一瞬の静寂。トロールの三つの瞳から光が消え、その巨躯が、まるでスローモーションのように崩れ落ちていく。ズゥゥゥンッ!  という地響きと共に、魔物は物言わぬ肉塊へと変わり、やがてその体は煤のような灰となって風に溶けて消えた。


「はぁ、……はぁ、……はぁ……」


 静寂が戻った広場で、彩人はただ一人立ち尽くしていた。手にした聖剣の輝きがゆっくりと収まり、元の無機質な鉄の質感へと戻っていく。


「成瀬……」


 彩人は剣を杖代わりにし、ふらつく足取りで汐里のもとへ歩み寄った。彼女の呼吸は弱いが、絶望的な出血は止まっている。聖剣から無意識に漏れ出た魔力が、彼女の命を繋ぎ止めていた。


 安堵が、彩人の全身を駆け巡った。それと同時に、今まで麻痺していた凄まじい「代償」が彼を襲う。


「……っ、がは……っ」


 無理やり魔術で繋ぎ止めていた肋骨が、膝が、そして過剰な魔力に焼かれた神経が、いっせいに悲鳴を上げた。視界が激しく歪み、世界が急速に遠ざかっていく。


(あ、……だめだ……これ、は……)


 指先から力が抜け、聖剣がアスファルトにカランと乾いた音を立てて転がった。彩人の膝が折れ、意識の糸がぷつりと断ち切れる。彼は汐里を庇うようにその場に崩れ落ち、深い闇の底へと沈んでいった。


 ――。


 静まり返った広場。逃げ去った群衆も、無責任な財団の職員も、まだ誰も戻ってこない。瓦礫と静寂だけが支配するその場所に、カツ、カツ、と場違いなほど軽やかな足音が響き始めた。


 倒れ伏す彩人のもとへ、一つの影がゆっくりと歩み寄る。


 それは、夜の闇を溶かしたような黒いドレスを纏い、月光のような銀髪をなびかせた、一人の少女だった。少女は彩人の傍らに転がる聖剣を一瞥し、それから慈しむように、泥に汚れた彼の頬に指先を触れた。


 沈みゆく意識の淵で、彩人は最後に見た。自分を覗き込む、氷のように冷たく、けれど燃えるように赤い、彼女の瞳を。


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ここまで読んでいただきありがとうございます。 第1章はこれにて完結です。第2章は明日以降、順次更新していきます! もし面白いと思っていただけたら、フォローや応援をいただけますと執筆の励みになります。

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アオゾラ・ブレイブソード 三七倉港(みなくらみなと) @kura_373

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