第3話 泥濘(ぬかるみ)のなかで

 トロールが満足げに鼻を鳴らし、巨大な足をさらに一歩、こちらへと踏み出した。その瞬間――。


「ひ……ッ!?」


 彩人の全身が、ガタガタと音を立てて震えだした。死にたくない。その原始的な恐怖が、汐里への想いを一瞬で塗りつぶしていく。彼は無意識のうちに、汐里の体を地面に横たえ、這いつくばったまま後退りしていた。自分はただの高校生だ。脚を壊し、何者でもなくなった少年なのだ。こんな化け物に勝てるはずがない。


(逃げなきゃ……誰か、誰か助けてくれ……!)


 だが、その逃げようとした指先が、地面に広がった汐里の血に触れた。ねっとりとした、けれどまだ熱を持った「彼女の命」の感触。


 ――「嫌! 空木君を置いていかない……絶対!」


 脳裏に、彼女の最後の叫びが蘇る。彼女は逃げられたはずだ。あの日からずっと、壊れたままの自分を隣で支え続けてくれた、お人好しの彼女だけが。


 後退りしていた彩人の手が、ピタリと止まった。自分は何をしようとした? 自分を守って打ち据えられた彼女を捨てて、自分だけが生き延びようとしたのか?込み上げてきたのは、恐怖を塗りつぶすほどの、猛烈な「自己嫌悪」だった。


(恥を知れ、空木彩人……!)


 彩人は泥を噛み、這いつくばるのをやめた。周囲を見渡せば、財団が用意した観客用のパイプ椅子が、無残にひしゃげて転がっている。


「……おおおおおおおッ!!」


 彩人は立ち上がり、その椅子を引っ掴むと、全力でトロールへと躍りかかった。右膝が悲鳴を上げ、脳が「壊れるぞ」と警告を発するが、そんなものはもう知ったことではなかった。


 鉄の塊が、トロールの強靭な皮膚を叩く。だが、そんなものは魔物にとって、羽虫が触れた程度の刺激にすらならなかった。


「ガァッ!?」


 トロールの無造作な裏拳が、彩人の胸元を捉えた。彩人の体は木の葉のように吹き飛ばされ、広場をバウンドしながら後方の「特設ステージ」へと叩きつけられた。


「……げほっ、……がはっ……」


 衝撃で視界が明滅する。肺が潰され、吐き出したのは鮮血だった。意識が泥のように濁っていくなかで、彩人は見た。トロールが自分から興味を失い、ゆっくりと「次の獲物」へ向き直るのを。倒れ伏したまま動かない、汐里のもとへ。魔物は巨大な足を持ち上げ、彼女の華奢な体を、今度こそ完全に踏み潰そうと影を落とした。


(やめろ……。やめろよ、……それ以上、彼女に……ッ!)


 立ち上がらなければならない。だが、全身の骨が悲鳴を上げ、指先さえ動かすことができない。絶望に沈む彩人の視界に、すぐ傍に佇む「影」が映った。


 白大理石の台座。そして、そこに深々と突き刺さったままの――聖剣。財団がビジネスの象徴として、抜けないことを前提に飾り立てていた「不動の剣」。


(走れ……走れ、走れ、走れ!! あの時みたいに……誰よりも、速く!!)


 彩人は、血塗れの手を伸ばした。大理石の台座を這い、すがるようにしてその柄を掴む。立ち上がるための杖が、それしかなかったからだ。


 グ、と柄に力がこもる。剣を支えに、震える膝を無理やり押し上げ、彩人はステージの上で立ち上がった。その瞬間だった。


 凍りついていた記憶の底から、あの「音」が鳴り響いた。スタートブロックを蹴り出し、風を切り裂き、自分が世界で一番速いと確信した、あの全能の瞬間の拍動。


 ――『魔術は、記憶の再現である』。


 彩人の手のひらから、失われたはずのエネルギーが奔流となって聖剣へと流れ込む。千年もの間、誰の呼びかけにも応じなかった鉄塊が、少年の激情に呼応して、白銀の輝きを爆発させた。


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次回『第4話 再誕の鼓動、あるいは世界最速の魔術』はこの後20:30に投稿予定です。

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