第2話 踏みにじられた逃走路
その三つの瞳に射抜かれた瞬間、全身の血液が逆流するような錯覚に陥った。トロールの視線には、知性ゆえの慈悲など微塵もない。そこにあるのは、ただ目の前の動くものを「排除」し、蹂躙するという、原始的で純粋な破壊衝動だけだった。
「――っ、成瀬、走れ!」
空木彩人は、喉の奥にこびりついた恐怖を怒声で振り払い、汐里の手を強く引いた。二人は出口ゲートを目指し、広場を埋め尽くす群衆の波へと飛び込む。
だが、広場はもはや出口へ向かうための通路ではなかった。阿鼻叫喚。その言葉以外に、この惨状を表現する術を彩人は持たなかった。数分前まで「五十億」という夢に浮かれ、聖剣の台座に群がっていた人々は、今や我先にと出口へ殺到し、折り重なるように転倒している。子供の泣き声、絶叫、そして誰かが誰かを突き飛ばす罵声。『世界勇者遺産保存財団』の警備員たちでさえ、職務を放り出し、誇り高き財団の紋章が入ったマイクを地面に投げ捨てて逃げ出していた。
「空木君、こっち! みんなについていけば……っ!」
汐里が彩人の手を握り直し、混乱する人々の流れに必死に食らいつく。それは「避難」ではなく「生存競争」だった。
(走れ、走れ、走れ……っ!)
目前に迫る出口。背後に感じる死の予感。彩人は、二年前のあの日以来、一度も出そうとしなかった「全力」で地面を蹴ろうとした。かつてのように、風を切り、世界を置き去りにするあの加速を。
その瞬間だった。
――ボキリ。
脳内で、忌まわしい記憶の音が再生された。肉体は完治している。骨も、筋肉も、かつての輝きを取り戻せるはずだと医師は言った。しかし、脳が拒絶した。全力で踏み込もうとした右膝に、実際には存在しないはずの「幻影の激痛」が走る。
「――っ、あ、……がっ!?」
膝が砕けたわけではない。ただ、脳が防衛本能として右脚の機能を強制停止させたのだ。全力の加速を受け止めるはずだった右足から、忽然と力が抜ける。必死に地面を捉えていたスニーカーが空を切り、彩人は激しくアスファルトへと叩きつけられた。
「空木君!?」
汐里の声が、喧騒の中で遠のいていく。転倒した彩人の周囲を走っていた群衆は、彼を「助けるべき人間」とは見なさなかった。彼らにとって、足の止まった人間は、自分たちの行く手を阻む「障害物」でしかなかった。
「どけ! 邪魔だ!」 「死にたいのかよ! どけ!」
誰かの重い靴底が、彩人の背中を容赦なく踏みつけていく。必死に立ち上がろうとするが、右膝は鉛のように固まったまま、彩人の意思を拒絶し続けている。逃げる勢いのまま誰かが彩人の腕を蹴り飛ばした。
人々は、ただひたすらに自分の命だけを見て、泥に塗れた彩人を無視して通り過ぎていく。そこにあるのは、友情も同情もない、剥き出しの生存本能だけだった。
「待って! 助けて! 空木君が……っ!」
汐里が必死に叫び、逆流するように彩人の元へ駆け寄ろうとする。だが、狂った群衆の波が彼女の体を押し流し、二人の距離を無慈悲に引き離していく。
「成瀬、いい! 先に行け……っ! 俺はもう、いいから!」
彩人は這いつくばりながら、喉を潰さんばかりの勢いで叫んだ。その背後に、巨大な、そして絶望的な「影」が落ちる。ゆっくりと振り返った彩人の視界には、自分を完全に見下ろすトロールの巨躯があった。魔物は、這いつくばる彩人の目の前までやってくると、不快な粘液を垂らしながら、歪な口を吊り上げた。誰も助けてくれない。誰も見てくれない。平和な日常が剥がれ落ちた瞬間に現れたのは、弱者を切り捨てる冷酷な世界の真実だった。
トロールが、その丸太のような腕を高く振り上げた。空を覆うほどの影が、彩人を包み込んだ。死の予感が、冷たい汗となって背中を伝う。
彩人が絶望に目を閉じようとした、その刹那。
「やめてぇぇぇぇぇっ!!」
鋭い悲鳴と共に、目の前に小さな背中が割り込んだ。成瀬汐里。逃げ惑う群衆を、財団の大人たちを、そしてこの理不尽な世界を置き去りにして、彼女だけが、空木彩人を守るように覆い被さった。
「成瀬、……お前、何を……逃げろ!」
「嫌! 空木君を置いていかない……絶対!」
彩人が見た最後のは、涙を浮かべながらも、決して離さないと強く自分の制服を握りしめる汐里の震える指先だった。
トロールの、山のような拳が二人を標的に振り下ろされる。――ドォォォォォォォォォンッ!!
爆発的な衝撃が広場を粉砕した。土煙がゆっくりと晴れていく。彩人の上に覆い被さっていた汐里の体が、力なく横へと滑り落ちた。彼女の白い制服は、一瞬にしてどす黒い「赤」に染まっていた。
トロールの直接打撃をその小さな背中に受け、彼女の細い体は、内側から破壊されていた。
「成瀬……? おい、成瀬……!」
彩人は震える手で彼女を抱き寄せる。手に伝わる彼女の体温は、驚くほど急速に失われようとしていた。
彩人の喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れる。視界が真っ赤に染まる。自分が「走ること」を恐れたせいで。自分の心が、不甲斐なかったせいで。その激しい自己嫌悪と、彼女の命の「赤」が、彩人の心の中で安全装置を焼き切り、かつて彼が持っていた、世界で最も熱く、最も速かった記憶の扉を、暴力的にこじ開けようとしていた。
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次回『第3話 泥濘(ぬかるみ)のなかで』はこの後20:00に投稿予定です。
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