アオゾラ・ブレイブソード

三七倉港(みなくらみなと)

第1話 聖剣は、ただの鉄塊だった

 二〇二五年、七月。鹿京市かきょうしの空は、泣き出しそうなほど重苦しい雲に覆われていた。湿り気を帯びた生温かい風が、アスファルトの熱をさらって街並みを撫でていく。


 空木彩人うつぎ あやとは、駅前の大型ビルの壁面に設置された巨大な街頭ビジョンを見上げていた。信号待ちの喧騒、誰かのイヤホンから漏れる刺々しい音楽、遠くで鳴る工事の音。それらすべての雑音が、今の彼にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。


『――「勇者展:ワールドツアー」、日本最終日。世界各地を巡回し、数多の熱狂を生んだ展示は、本日午後五時をもって閉幕いたします……』


 ビジョンの中では、ドラマチックなBGMと共に、錆びついた大剣や、文字の掠れた古文書の映像が流れている。現代において、魔術や魔物は空想の産物ではない。それらは「かつて確実に存在したが、今は資源の枯渇によって失われた、科学以前の自然現象」として、義務教育の教科書に記されている。


「勇者、ね……」


 彩人は、自嘲気味に口の端を歪めると、視線を自分の足元に落とした。履き古したスニーカー。その右足側、ズボンの裾に隠れた膝のあたりには、一本の醜い傷跡が刻まれている。


 かつて、彼は「鹿京の韋駄天」と呼ばれた陸上競技界の寵児だった。けれど、二年前の夏、過度な練習による疲労骨折が、彼の未来を粉砕した。ボキリ、というあの時の音を、彼は今でも夢に見る。


「もう、全力で走ることはできません」


 主治医の淡々とした宣告は、少年の心を鋭く切り裂いた。夢を失った十六歳の少年にとって、世界は彩度を失ったセピア色の写真のようなものだった。昨日と同じ今日。今日と同じ明日。彼は心のどこかでこの「退屈な日々」が壊れることを、何かが起きることを、救いのように切望していた。たとえそれが、破滅の足音であったとしても。


「空木君! またそんなところでぼーっとして!」


 背後から響いた、鈴を転がすような、けれど少しだけ怒りを含んだ明るい声。振り返ると、そこには幼馴染の成瀬汐里なるせ しおりがいた。少し短めの制服のスカートを揺らし、頬を膨らませて彼を見上げている。


「成瀬か。……待ち合わせにはまだ五分あるぞ」

「女の子を待たせる前に、自分から待つのがマナーでしょ? ほら、行くよ。世界巡回の最終日なんだから!」


 汐里は彩人の腕を、遠慮なくぐいと引っ張った。彼女は彩人の「世話焼き」であり、彼が陸上を失ってからというもの、これまで以上に距離を詰めて接してくれる唯一の存在だ。


 汐里は、自分の後ろをついてくる彩人の気配を、繋いだ手の感触越しに感じていた。彼は、自分がどれほど優しいかを知らない。怪我をして一番辛いはずなのに、お見舞いに来た自分が泣きそうな顔をしているのを見て、無理に笑って「大丈夫、歩けるようにはなるから」と慰めてくれたのは彩人の方だった。


 だからこそ、今の彼を支配している空虚な瞳を放っておけない。彼女は彩人を「止まった日常」の中に繋ぎ止めようと、必死に彼の歩みを導いているのだ。


 二人がやってきたのは、市の博物館。しかし、館内に入る前に、彼らはまず隣接する「勇者展特設広場」の熱気に呑み込まれた。そこは、博物館の静謐さとは無縁の、下卑た興奮が渦巻くお祭り会場だった。


「――さあさあ、勇者展最終日! 最後のチャンス、世紀の『聖剣引き抜きチャレンジ』だぁ! 主催する『世界勇者遺産保存財団』公認! 挑戦料はたったの五千円! もしも、お前さんが抜くことができれば、賞金総額、五十億円をお持ち帰りだぁ!」


 特設の野外ステージ中央。磨き上げられた白大理石の重厚な祭壇に、一振りの剣が深々と突き刺さっている。鍔には竜を模した意匠があり、刃身は千年の時を経てもなお、曇り一つない冷たい輝きを放っていた。


 それを管理しているのは、世界中の勇者関連の資料を独占的に管理する巨大組織、通称『財団』だ。彼らにとって、この聖剣は歴史的遺物であると同時に、最高級の集客パンフレットでもあった。


「……ねえ、空木君。あれ見て」


 汐里が、呆れたような、それでいて少し苦笑混じりの声を上げた。彼女が指差した先――聖剣が突き刺さっている大理石の台座は、広場のステージと完全に一体化するように設置されていた。


「あんなに立派な台座をあつらえちゃって……。抜けないのをいいことに、もうあんなのステージの飾りになっちゃってるよ」

「ああ、酷いもんだな。財団も、伝説を安売りするわりに、絶対に抜かせないっていう執念だけは一流だ」


 彩人は吐き捨てるように呟いた。ステージ上では、ガタイの良い男が顔を真っ赤にして剣の柄を両手で掴み、咆哮を上げている。けれど、巨大な大理石に根を張ったかのような「鉄の棒」は微動だにしない。


「はい、残念! 次の方、どうぞ!」


 無情な係員の声と共に、男は肩を落として去っていく。かつての英雄の武器が、財団の管理下で見せ物小屋の出し物として消費されている。


「空木君、やってみないの?」


 汐里がいたずらっぽく微笑みながら尋ねてくる。


「馬鹿言え。五千円あったら、美味いもん食った方がマシだ」

「ふふっ、それもそうだね。……あ、でも私、もし空木君が抜いたら、本当に五十億もらえるのかなって、ちょっとだけワクワクしちゃう」


 汐里の瞳が、ステージの照明を反射してキラキラと揺れる。彼女が楽しそうなら、それでいい。彩人はそう思いながら、広場の喧騒を抜けて、博物館の本館内へと足を進めた。


 ――。


 厚い自動扉が閉まると、広場の野卑な騒音は一気に遠のき、静寂と冷房の風が二人を包んだ。館内は、打って変わって厳粛な空気が流れている。


「わあ……やっぱりこっちは、本物って感じがするね」


 汐里が声を潜めて呟く。展示室の壁には、財団が世界中から集めた肖像画が飾られていた。

 彩人は、展示ケースの中にある『魔導回路の銀盤』に目を止めた。複雑な幾何学模様が刻まれたそれは、かつて魔導師たちが「記憶」を増幅し、現実へと定着させるための媒体だったという。


「魔術は……『記憶の再現』だって習っただろ。自分の経験したこと、感じたことを、この世界に強引に投影する技術。……もしそれが叶うなら」


 彩人は、無意識に右膝をさすった。


「怪我をする前の、一番速く走れていた時の自分の感覚……。あの快感を、もう一度だけ、この世界に再現してみたいかな」


 その言葉を聞いた汐里は、一瞬だけ寂しげに目を伏せ、それから無理に明るい笑顔を作った。


「……そっか。そうだよね。空木君は、いつだって誰よりも速かったもんね」


 その直後だった。

 ――ズシンッ!!

 博物館の巨大な構造体そのものが、底から突き上げるような衝撃に悲鳴を上げた。展示ケースの中で、魔法薬の瓶がカチャカチャと音を立てて震える。


「な、何!? 地震!?」


 汐里が彩人の腕を掴んだ。けれど、それは断続的な揺れではなかった。外の広場から、地鳴りのような「絶叫」が聞こえてくる。


「――っ、成瀬、外だ!」


 彩人は汐里の手を引き、慌てて入り口の自動扉へと引き返した。扉が開いた瞬間、彼らの目に飛び込んできたのは、数分前までの能天気な祭り会場の姿ではなかった。


「……あ、……あぁ……」


 ステージの係員が、腰を抜かして這いつくばっている。砂煙が舞い上がる広場の中心。聖剣の突き刺さった白大理石の祭壇のすぐ横に、それは「降臨」していた。

 外壁を粉砕して現れた巨大な「腕」。岩石のようにゴツゴツとした、どす黒い皮膚。一本一本が丸太のような指。砂煙がゆっくりと晴れていく。

 そこに現れたのは、現代の兵器でもそう簡単には倒せないであろう、旧時代の支配者だった。体長三メートルを超える巨躯。醜悪に歪んだ顔面には、三つの赤黒い瞳が爛々と輝いている。裂けた口からは、粘り気のある唾液が滴り落ちていた。


「トロール……? 嘘だろ、絶滅したんじゃ……」


 空木の喉から、掠れた声が漏れる。教科書の中でしか見たことのない、千年前の魔物。それが今、目の前で本物の「死」を撒き散らそうとしていた。

 空木の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。逃げなければならないのに、石のように固まった右膝は、一歩も地面を離れてくれなかった。


「……っ、空木君!」


 恐怖に支配された空間の中で、汐里の声だけが鋭く響いた。魔物の三つの瞳が、ゆっくりと、彼らの方へと向けられた。


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次回『第2話 踏みにじられた逃走路』はこの後19:30に投稿予定です。

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