九話 声を上げた人

第九話 声を上げた人


 会議室に入った瞬間、藤堂は一人分だけ空気が張りつめているのを感じ取った。


 長机の端に座る若手審査官――名札には「坂井」とある。資料を抱えたまま背筋を伸ばし、周囲の視線を気にしていないふりをしている。藤堂はその姿に、どこか既視感を覚えた。かつての自分ではない。だが、遠くはない。


 案件の説明が始まる。映像自体は穏やかで、問題になりそうな表現も巧妙に避けられている。だが坂井は、途中で手を挙げた。


 「一点、確認させてください」


 声は少し硬いが、内容は整理されていた。描写の選び方、構成の順序、暗示される前提。規定に抵触しないまま、特定の解釈へ誘導していることを、坂井は淡々と指摘した。


 「現行規定では違反ではありません。ただ、放送後の受け止められ方次第では、問題化する可能性があります」


 室内が静まる。


 誰も否定しない。誰も肯定しない。


 上席審査官は資料に目を落としたまま、短く頷いただけだった。


 「意見として受け取ります」


 それ以上は続かなかった。議題は次に移り、会議は予定通り進行する。藤堂は一言も発しなかった。発する理由も、発さない理由も、どちらも十分に揃っていた。


 会議後、廊下で坂井が藤堂に声をかけてきた。


 「さっきの件ですが……どう思われましたか」


 藤堂は一瞬だけ言葉を探し、結局、事実だけを返した。


 「規定上は問題ない」


 坂井は少しだけ安心したように頷いた。その反応を見て、藤堂は理解した。坂井は、味方を探している。賛同ではなく、同意でもなく、ただ“一緒に考えている誰か”を。


 しかし藤堂は、それ以上を差し出さなかった。


 数日後、その案件は通過した。修正は入らず、放送準備に回される。特別な連絡も、追加の議論もなかった。


 藤堂の業務は滞りなく進み、評価は下がらない。変わったことといえば、坂井の名前を、次の会議資料で見かけなかったことくらいだった。


 席替えか、担当変更か。理由はいくらでも考えられる。


 藤堂は端末を閉じた。


 声を上げた人間がどうなるのかを、彼はもう知っている。  それでも、その場で沈黙した事実だけが、記録には残らなかった。

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