第3話 失敗に慣れた人々
街で暮らし始めて数日、僕はこの世界の人々が「改善」を嫌うことに気づいた。嫌うというより、そもそも想定していない。道が壊れていても直さない。直したところで翌日には消えるからだ。ならば壊れた道を避ければいいが、避けない。避けるという成功すら消えるから、避けても意味がないのだろうか。僕はその理屈を理解しようとして、理解できない自分に腹が立った。
パン屋の前に、いつも同じ穴があった。穴は大きくもならず、小さくもならない。人はその穴に毎日つまずく。つまずいた瞬間だけ、顔がほんの少し歪む。しかし怒らない。怒ることは成功に近いのかもしれない。怒って世界を変えようとするのは、ここでは禁忌に見えた。
僕は一度、その穴を埋めようとした。土を運び、石を詰め、上から踏み固めた。仕事の手順は僕の世界の常識に沿っていて、だからうまくいった。うまくいった瞬間、僕はなぜか寒気がした。成功が消えるなら、埋めた穴は明日戻る。戻るなら、僕がやったことはなかったことになる。なかったことになる僕は、誰なのか。
翌日、穴は元に戻っていた。しかも、僕が踏み固めた跡だけが変な形で残っていた。土の表面に僕の靴の模様が、妙に鮮明に刻まれている。穴はそのまま。成功は消え、失敗だけが履歴になる。僕の靴跡は、成功に付随した余計なものとして残ったのか、それとも「余計なことをした」という失敗として残ったのか。判断がつかない。判断がつかないまま残るものは、たいてい不気味だ。
ある夜、酒場で誰かが言った。
「この世界は、失敗でできている。失敗は素材なんだ」
素材という言い方が軽くて、僕は気分が悪くなった。失敗が素材なら、僕は相当な資源国家だ。そういう自嘲が浮かんだ瞬間、自嘲そのものが成功っぽく見えて、僕はまた気分が悪くなった。
「じゃあ、成功は?」
僕が聞くと、皆は肩をすくめた。肩をすくめる仕草だけが統一されていて、妙に安心した。仕草は消えないのだろうか。消えないなら、成功と失敗の境界はどこにあるのか。境界を問うこと自体が、この世界では失敗なのかもしれない。失敗なら残る。残るなら、僕は問い続けることになる。
僕はその夜、紙に「改善は消える」と書いた。書いた瞬間、その言葉が世界のルールを固めたような気がした。僕の書いた言葉が世界を支配するなどという自意識は持ちたくない。持ちたくないが、持ちたくないと思うほど、持っている気がする。自意識は失敗の王様だ。王様は、よく残る。
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