第4話 失敗しない恐怖
次の日から、奇妙なことが起きた。僕が失敗しなくなった。石につまずこうとしても、足が勝手に避ける。熱い鍋に触れようとしても、手が止まる。間違った道を選ぼうとしても、体が正しい方へ向かう。正しい方がどちらか僕には分からないのに、体は分かっている。体が分かることほど信用できないのに、体は僕の意思より強かった。
最初は楽だった。怪我をしない。怒られない。恥をかかない。僕は生きるのが上手くなった気がした。生きるのが上手いという感覚は、僕にとってほとんど初体験だった。初体験には必ず罠がある。罠があると思うのも罠だが、罠があると思わないのはもっと罠だ。
街の人々が、僕を見て少し目を細めるようになった。
「あれ、君は……」
言葉が途中で途切れる。名前が出てこない感じではない。存在そのものが引っかからない感じだった。僕は自分の顔を触った。触れる。触れるなら存在している。存在しているなら、なぜ認識されないのか。認識されないのは、成功しすぎて消え始めているからだろうか。
宿に戻ると、僕の部屋が別の人に割り当てられていた。主人は悪びれずに言った。
「空いてたからね」
空いてた、という言い方が恐ろしかった。僕は確かに昨日ここで寝た。寝たという行為が成功だったのか失敗だったのか分からないが、とにかく僕はここにいた。いたはずだ。いたはずだと言い切るほど、言い切れなくなる。言い切れなくなるほど、僕は消えていく気がした。
僕は街の端の白い柱まで歩いた。最初に会った灰色の人はいなかった。机だけがあった。紙とペンもある。僕はペンを握った。握るという行為は、僕の意思のはずなのに、なぜか他人の手を借りているように感じた。僕は紙にこう書いた。
「僕はここにいる」
書いた直後、その文字が少し滲んだ。滲むのは失敗だろうか。失敗なら残る。残るなら、僕は助かるかもしれない。助かるという期待が出た瞬間、期待そのものが成功に見えた。成功なら消える。僕は期待を消すために、期待したことを恥じた。恥じるのは失敗であり、失敗は残る。僕は自分の感情を道具にしているみたいで、ますます気分が悪くなった。
その夜、僕は意識的に「失敗しよう」とした。水をこぼそうとする。足を滑らせようとする。言い間違えようとする。だが体が止める。成功の自動化だ。成功が自動化されると、人は消えるのかもしれない。人が人であるためには、手動の失敗が必要なのだろうか。そんな理屈を立てる自分が嫌で、嫌な自分が残っていくのがさらに嫌だった。
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