第2話 成功してはいけない

 翌朝、僕は宿の窓から外を見た。朝の光は変に均一で、影も薄かった。均一な光の下では、自分の輪郭が曖昧になる。輪郭が曖昧になれば、失敗をしなくても済む気がした。そういう考えが出てくる時点で、僕はたぶん失敗している。


 宿の主人は僕に仕事をくれた。荷物運びだった。街の端にある倉庫から小麦袋を運ぶだけで、単純で、単純な仕事ほど僕は苦手だった。苦手だからこそ、うまくやってしまう可能性がある。うまくやって消えるのは、なんだか損だと僕は思った。損得で世界のルールを測るのも変だが、他に測り方がない。


 僕は小麦袋を持ち上げ、背中に乗せ、ゆっくり歩いた。転ばないように、袋を落とさないように。いつもなら「丁寧にやろう」と思うが、今日は違った。「丁寧にやったら消える」と思う。丁寧さが罰になる世界は、倫理の形だけが残って中身が消えたみたいだった。


 倉庫に着き、袋を下ろし、控えめに礼を言った。誰も驚かない。誰も褒めない。褒められないことに慣れているつもりだったが、慣れているつもりが一番危ない。僕は帰り道で、わざと石に足を引っかけた。袋が少し傾き、小麦が少しこぼれた。小麦は白い粉になって地面に散った。


「いいね」

 倉庫の男が言った。笑っていたが、笑いの意味が分からない。僕は謝ろうとして、謝らなかった。謝ったら、こぼしたことが僕の責任になりそうだった。責任という概念が、この世界ではどう残るのか分からない。責任が残るなら、僕の存在も残るのかもしれない。


 次の日、僕は同じ道を歩いた。こぼれた小麦の粉は、そこに残っていた。風が吹けば消えそうなのに消えない。こぼした跡だけが、世界に固定されている。僕が昨日運んだ袋そのものは、何も残っていない気がした。倉庫の中の袋が増えた形跡も、減った形跡もない。


 宿の主人に「昨日の仕事、助かったよ」と言われることはなかった。むしろ、彼は僕を見て少し首を傾げた。「君、誰だっけ?」と聞かれた気がする。実際に聞かれたのか、僕の被害妄想なのかは分からない。分からないままにしておくのが一番楽だが、楽な方へ行くとだいたい詰む。


「成功は消える。失敗は残る」

 僕は声に出さずに言った。声に出したら、言葉だけが残って、意味が消えそうだった。言葉が残る世界は、僕のいる世界と同じなのかもしれない。そういう連想は、いつも僕を嫌な場所へ連れていく。嫌な場所はなぜか残り続ける。たぶん失敗だからだ。

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