異世界で失敗だけが引き継がれる
nco
第1話 失敗が記録される世界
目が覚めたとき、空は低かった。雲が低いというより、空そのものが天井のようにすぐそこにあって、手を伸ばせば触れられる気がした。触れたところでどうなるわけでもないのに、僕は少しだけ伸びをして、伸ばした手を途中で引っ込めた。こういう行為は、いつも後から恥ずかしくなる。
周囲には街も森もなかった。乾いた地面に、目印みたいに一本の白い柱が立っていて、その根元に小さな机と椅子が置かれていた。机の上には紙とペンがあり、ペンは新品のように光っていた。新品に見えるものほど、信用できない。僕はそのことを、なぜか最初に思い出した。
「起きた?」
声をかけられた。振り返ると、薄い灰色の服を着た人が立っていた。男か女かは判然としない。顔は整っているが、印象に残らない整い方だった。僕が何か言う前に、その人は紙を指で軽く叩いた。まるで、これだけがこの世界の入口だと言いたいみたいに。
「ここでは、成功は残らない。失敗だけが残る」
彼はそう言った。説明としては短すぎるし、断定としては乱暴だった。僕は「意味が分からない」と言いかけて、口を閉じた。意味が分からないという事実は、だいたいどこでも同じように存在しているからだ。
「成功した行為は、翌日にはなかったことになる。だが失敗した行為は、履歴として残る」
履歴、という言葉が妙に現代的に聞こえた。僕は履歴書のことを思い出した。あれも、成功したことだけを書いて、失敗したことは書かない。ここは逆なのか。逆にしただけで、世界が成立するとは思えない。
「だから、気をつけて。うまくやりすぎると消える」
彼は忠告の形で言った。忠告の形というのはずるい。相手が責任を負わないまま、こちらに責任だけが移る。僕はうなずいてしまいそうになり、うなずかなかった。うなずいたら負ける気がしたが、何に負けるのかは分からなかった。
それから僕は、机の上の紙に自分の名前を書いた。字は少し曲がった。曲がった字だけが残り、まっすぐ書いた字は消えるのだろうか、と僕は思った。思っただけで、確かめる勇気はなかった。確かめる勇気があるなら、今ここにいない気もした。
少し歩くと、街が現れた。街は最初からそこにあったように自然で、自然に見えるものほど作り物だという僕の偏見を、いちいち刺激した。人々は普通に働き、普通に会話し、普通に笑っていた。失敗だけが残る世界で、どうやって普通が成立しているのか、僕には見当がつかなかった。
「困ったら、失敗の多い方へ行けばいい」
誰かがそんなことを言った。僕に向けて言ったのか、空に向けて言ったのか分からない。僕はその言葉を胸の中で繰り返してみた。繰り返すたびに、少しだけ意味が遠ざかった。遠ざかるものほど、正しいのかもしれないと僕は思い、そう思う自分を信用しなかった。
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