第4話
夜、机の上の明かりだけが部屋を照らしていた。
窓の外は静かで、街の音もほとんど聞こえない。
アイリスは便箋を前にして、長い間ペンを動かせずにいた。
宛名は決まっている。
かつて、自分に物語を語ってくれた数学教師。
何度も書き出しては、最初の一行で止まる。
「お元気ですか」
それだけでは、あまりにも遠い。
教師になったことは伝えたい。
だが、それだけなら、手紙を書く理由にならない。
ペン先を紙に当て、ゆっくりと書く。
——
先生へ
私は今、学校で教えています。
あの頃、先生が座っていた位置に、私が立っています。
——
そこでまた、手が止まる。
子どもたちの顔が浮かぶ。
正解を待つ目。
間違えないようにする態度。
そして、自分の声。
「覚えなくていい」
「考え方が大事」
それは本当なのだろうか。
考え方だけで、生きていけるのだろうか。
再び、書き進める。
——
先生、私は何を教えればいいのでしょうか。
計算は教えられます。
読み書きも、基礎的な理屈も。
けれど、社会はそれだけでは動いていません。
不合理なこと、理不尽なこと、説明のつかない決定がたくさんあります。
それらを前にして、
「正しく考えなさい」と言うことが、正しいのか分かりません。
——
紙に文字が増えるにつれ、胸の奥が少し軽くなる。
同時に、怖さも出てくる。
——
子どもたちに、政治の話はできません。
思想の話も、平等の話も、簡単にはできません。
どれも、大人同士でも答えが出ないからです。
それでも、社会はそれらの上に成り立っています。
先生は、なぜあのとき、
答えのない物語を私に聞かせたのでしょうか。
何を教えなかったのか。
何を、あえて教えなかったのか。
——
最後の一文をどう締めるかで、また迷う。
「教えてください」と書くのは、簡単だ。
だが、それでは昔と何も変わらない。
しばらく考えてから、こう書いた。
——
私は今、子どもたちに
「分からないまま考え続けること」を教えようとしています。
それでいいのかどうか、確信はありません。
ただ、先生がしてくれたことに、少し近い気がしています。
この考えが間違っているなら、
いつか、そうだと教えてください。
——
ペンを置く。
便箋を折り、封筒に入れる。
切手を貼る手が、わずかに震えている。
これは質問ではない。
助言を求める手紙でもない。
自分が、どこに立っているのかを知らせるための手紙だ。
ポストに投函したあと、夜空を見上げる。
星は見えないが、空は確かにそこにあった。
返事が来るかどうかは分からない。
けれど、問いはもう、胸の内だけのものではなかった。
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