第2話
その教室は、今思えば少し古かった。
机には細かな傷があり、黒板の端は何度も消された跡で白く曇っていた。
アイリスがその教室に入ったのは、転校してきた春のことだった。
周囲の子どもたちは、すでに出来上がった空気をまとっていて、
彼女だけが、そこに「置かれた」ような感覚を覚えた。
数学の授業が始まると、教師は静かに教室に入ってきた。
背は高くも低くもなく、声も特別大きくない。
ただ、黒板に向かうときの姿勢だけが、妙に整っていた。
「今日は、割り算の続きだ」
教師はそう言って、式を書き始めた。
説明は簡潔で、無駄がない。
質問をすれば答えてくれるが、余計なことは言わない。
アイリスは、その授業が嫌いではなかった。
正解があり、順序があり、混乱が少ないからだ。
けれど、その日の終わり際、教師はふとチョークを置いた。
「時間が少し余ったな」
誰かが小さくざわめいた。
自由時間になるのかと期待する子もいれば、次の授業の準備を始める子もいた。
教師は黒板の端、まだ何も書かれていない部分を指でなぞった。
「じゃあ、話をしよう」
それは、算数とは関係のない話だった。
数字も、公式も出てこない。
ある日、道に迷った子どもが、不思議な場所に入り込む話。
そこでは、言葉の意味がずれ、
正しいはずの答えが、通用しなかった。
「そこで大事なのは、正解を出すことじゃない」
教師は黒板に何も書かず、そう言った。
「自分が、何を当たり前だと思っているかを知ることだ」
子どもたちは静かになった。
アイリスも、ノートを取るのをやめて、教師を見ていた。
「計算は、世界を単純にするための道具だ。
でも、世界そのものは、単純じゃない」
教師は、それ以上説明しなかった。
物語は途中で終わり、結論も示されなかった。
「今日はここまで」
そう言って、教師はまた普段通りに授業を締めくくった。
アイリスは、その話がよく分からなかった。
けれど、不思議と忘れられなかった。
黒板の端に残された、何も書かれていない余白。
そこに、本当は何かを書くべきだったのではないか――
そんな気が、ずっとしていた。
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