アイリス

紙の妖精さん

第1話




朝の光を必要以上に取り込んで、白い壁に反射した光が、机の天板を一様に照らし、黒板の文字だけがわずかに影を落としている。


アイリスは教壇に立ち、まだ誰も座っていない教室を見渡した。

整然と並んだ机と椅子。

新しく塗り直された床。

ここには、混乱も不条理もない。少なくとも、見た目の上では。


今日から彼女は、この学校の教師だった。


教員用の名簿を閉じ、アイリスは深く息を吸う。

教える科目は算数と理科。

指導要領も、年間計画も、評価基準もすべて頭に入っている。

何を、いつ、どの順番で教えるか――それ自体に不安はなかった。


問題は、もっと別のところにあった。


「……それで、いいのかしら」


声に出すと、教室に小さく反響して消えた。

彼女が疑問に思っているのは、何を教えるかではない。

何を教えないのか、だった。


子どもたちはやがて、この教室を出て社会に出る。

数式を解く力や、実験の手順を守る力だけで、世界は渡っていけるのだろうか。

それとも、ここでは決して触れてはいけない何かが、本当は一番大事なのだろうか。


時計を見ると、始業まであと十分だった。


アイリスは鞄から一冊のノートを取り出した。

学生時代に使っていた、古いノートだ。

表紙の角は擦り切れ、ページの端は少し黄ばんでいる。


その中に、彼女が子どもの頃に聞いた「話」が書き留められていた。

算数の授業の合間に、教師がふと語ってくれた、不思議な話。

正解も結論も示されなかった、奇妙な物語。


当時は意味など考えなかった。

けれど今、その記憶が、どうしても頭から離れない。


「先生は、何を教えようとしていたんだろう……」


チャイムが鳴る直前、廊下から子どもたちの足音が聞こえ始めた。

アイリスはノートを鞄に戻し、表情を整える。


教師としての一日が、始まる。


しかし彼女の中では、

ずっと昔の、別の教室の扉が、静かに開きかけていた。

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