第4話 代償と、不穏な通行止め

 カスイは水汐を家に誘おうかとも考えたが、彼女は一人になりたいかもと考えやめておいた。代わりに今度一緒に出かける約束を取り付けておく。


 水汐が少し笑って承諾したところで、分かれ道に到達した。水汐にまたね、絶対一緒に出かけようと何度も告げてカスイは旅館の方向へと進もうとした。


 だが、カスイはピタリと足を止めた。通行止めの立て看板が見えたからだ。下水管の緊急工事だとか。

 なんだなんだ、と唇を尖らせて道を変えて水汐と合流する。水汐は工事している者達をやや不審げに眺めてから、カスイと歩幅を合わせた。


 暫く歩きもう一度またね、と言ってみればまたもや通行止めの看板が立ち塞がる。先ほどとは違う理由と説明が書かれた看板にカスイと水汐は顔を合わせた。

 不気味になり、足早になって違う道へと急いでも同じ結果になった。


 どうなってるんだ。


 家がこちらにあるので通して欲しいと言ってみても、申し訳ないが少し待っていて下さいと丁寧な態度で突っぱねられてしまう。文句を言ってやろうとしたが、ロウ・ディフェンダー公認の業務を示すステッカー——通称、手形と言われているマークが看板に貼られているのを見て、口を噤んだ。


 下手に口出しして彼らの仕事を邪魔したと思われたら最悪、ロウ・ディフェンダーがやって来てしまい、反論の余地もなく業務妨害とみなされ、拘束・起訴まで待ったなしだったりするのだ。


 ロウ・ディフェンダー関連の仕事は、既に公務執行妨害に近いレベルの保護がついていた。

 カスイは少し悩んでから、水汐に帰るように言って小走りにその場を後にする。

言いようのない不安が、胸中に去来していた。


 彼女は業を煮やして家と家の細い隙間を足早に移動していった。何度も曲がり、時に塀を乗り越える細い通路は人というよりも猫の通り道で、カスイにしても幼い頃以来の歩行ルートだったが、日頃鍛えていることことが理外の幸いとなって難なく踏破出来た。


 広い道路に辿り着く。ここまで来れば、あとは少しといったところだ。


 「へー、こんな道があったんですね」


 置いてきた筈の声に背中を叩かれた。驚いて振り返れば、水汐がゆっくりと歩いてきていた。どうして、と呟けば水汐はなんて事はないと両肩を持ち上げる。


 「私、体育の成績5ですから」

 「違う、そうじゃない」

 「冗談です。少し気にある事があったので、ついて来ました」

 「ついてきたって……」

 「さ、早く旅館に行きましょう」


 さっさと水汐は歩き出してしまい、カスイは慌てて追いかけた。嫌な予感は未だに胸中で渦巻き、水汐の同行に不安はあったが、止める間もなく進む水汐はどこか頼もしさもあり、カスイは結局何も言わずに一緒に旅館へ向かうことにした。


 旅館の前には車が一台のセダンが止まっていた。人は乗っていないが、近づくと残っている熱が伝わってきて、乗っていた人物の名残を肌で感じられた。


 気配の痕跡。


 「誰の車だろ……大体どうやって入って……いや、そんなのああなる前に来たってことだよね」

 カスイは車に触れないようにしつつ脇を抜けて、旅館の扉を開けた。

 静けさを感じつつ、カスイは扉を開けようとした。


 その瞬間、窓ガラスの割れる硬質な音が響く。男と男の重なった怒声が外へと吐き出された。

 あらゆる考えが吹き飛んだ。視野の全てが今だけに集中していった。


 途端にカスイは旅館の中に飛びこんだ。水汐の一声はカスイの影にだけ届き、走る彼女に置き去りにされる。

 騒乱の音は二階からで、そして彼女は瞬く間にそこに辿り着く。


 走っている間の記憶は彼女になかった。パソコンのショートカット機能みたいに、過程は消失していてゴールのみが眼前に広がっている。


 覚醒した意識がまずは視覚で異常を感知した。


 黒い目出し帽を被った者——体格とフォルムから察するに男が、階段を登った先に立っていた。黒いレザースーツに革手袋までしている。

 熱くなってきたこの時期に似つかわしくない格好だった。


 悪意が目に見えるようだ。

 誰かは分からない。表情は見られず、考えも読み取れない。

 だが悪意だけははっきり分かった。


 触覚が覚醒し、じっとりとした汗を感じた。張り付くシャツに全身を締め付けられる気がして、息が詰まりそうになる。

 次いで聴覚が急に目を覚ますと、呻き声が聞こえた。


 廊下の奥で、父親が頭から血を流し倒れている。呻き声は彼のものだった。


 「お父さ——」


 思わず踏み出そうとした頭に衝撃が叩き込まれる。

 目の前の男が振り下ろした警棒がカスイの側頭部を捉えたのだ。膝から崩れ落ちた彼女の右肩に激痛が走る。二撃目が降り注いだのだ。


 息を呑む。悲鳴も出せない。歪む視界の中で影が薄くなり、もう一発を振り被ろうとしているのだと悟った。


 滅茶苦茶に叫ぶ。

 どうにか逃げようと身体を持ち上げる。男が右手に力を籠める。


 水汐の呼気が聞こえたのはその時。


 疾走を左足で止めた彼女は、勢いを殺さずに右膝を振り上げるとスナップを利かせてつま先を押し出した。


 繰り出したのは右の前蹴り。


 学校指定の革靴が男の腹部に直撃する。呻き声が漏れ出し、男はたまらず後ろに下がった。


 「すみません、カスイさん」


 水汐が顎の近くで拳を握り、軽くステップを踏みながら言う。


 「緊急を要すると判断し、靴のままお邪魔してしまいました」

 「今それ? いやいや、水汐ちゃん格闘技なんてできたの?」

 「はい。古流柔術は嗜んでいます」


 いや、今蹴ったじゃん。

 状況についていけないカスイを庇うように、水汐は前に出る。蹴られた男は怒りからか肩を震わせ、何かを呟いた。


 水汐は頭頂部で髪の毛をシュシュでまとめてハイポニーテールにしつつ、両手にはフィンガーレスのシューティング・グローブを嵌めていた。

 男の背中に、違う男の声が届いたのは彼が動こうとした時だった。


 「馬鹿、なにやってんだ。熱くなるんじゃねェよ。殺しの許可は『買って』ないだろうが」

 仲間からの一声に男は振り返らずに答える。

 「うるせェ! じゃあ、今買えばいいだろ。こんなガキに嘗められたままで黙ってられるか。それに誰かに見られても最悪また記憶を消せばいい話だろうが」


 また? 記憶を?


 カスイは混乱し、仲間の男がしゃべり過ぎだと文句を言う。水汐だけは混乱とも怒りとも無縁とばかりに間合いを計っていた。


 と、廊下の奥から仲間の男が突っ込んでくる。ネズミ色のジャージに革手袋、青い目出し帽という絶妙にバランスの悪い格好をした男はしかし場慣れしているのか、躊躇う素振りを見せずに攻勢に出た。


 唸り声を上げて金属バットを高く持つ。パイプを地面に打ち込むみたいに、水汐を叩き落とそうとした。


 だが水汐の方が一枚上手だった。


 左足を前にし、右足を身体の下に置き、彼女は真半身に近い構えを取る。前足のつま先が相手に向くようにし、軽く握った拳は顔の近くに設置した。

 

 キックボクシングの構えだと金属バットの男が悟った刹那、水汐の左拳が奔る。

鋭い左ジャブは男の眼前の空気を穿った。鼻先を掠めた一発は寸での差で届かないが、狙いはあくまで釣りだった。


 ぎょっとした男が戻る拳に引かれるように金属バットを振り下ろす。体重を乗せきれず、中途半端な速度しか出ていない金属バットに水汐は余裕をもって反応した。


 拳を戻す反動でバックステップしてやり過ごした直後、曲げた右膝を一気に伸ばす。バネで跳ぶように間合いを詰めた水汐は、男の両手首を左右の手でそれぞれ掴んだ。


 退がりながら思い切り下方に引き抜けば、前のめりになっていた男は抵抗する暇もなく前に突っ伏した。くぐもった声を上げる男から金属バットをかすめ取り、距離を詰めようとした警棒の男に先端を向ける。


 たじろいで踏み込めなくなる男。水汐は一歩下がって一呼吸する。


 「カスイさん、一旦逃げて民間警察に電話してください。大声で叫んで外を走り回ってもいいです。ここは私が——」


 水汐の言葉は途中で消えた。カスイの混乱も、誰かの悲鳴も、強烈な破裂音で塗り潰された。


 水汐が背中から倒れる。金属バットが派手な音を立てて転がった。


 客間から身体を覗かせた男が、両手を真直ぐ伸ばしているのがカスイの目に映る。そして彼の手に自動拳銃が握られているのが、冗談みたいに確認できた。


 「え?」カスイは信じられないと水汐に顔を向ける。「水汐ちゃん?」


 血も出ているように見えないが、苦しそうに喘いでいる。何かを言おうとしていたが、うまく言えていなかった。


 駆け寄ろうとしたが、うまく足が動かない。


 男の一人が声を荒げた。

 「だから殺すなって言われてんだろうが」

 「殺してねーよ アホ! ゴム弾だって言われたろうが。そんなことより予定変更だ。さらうのはガキの方にしろ」


 「あ? 女将の方じゃ……」

 「そっちの方が効果あるだろ。車回しとくから早くしろ。ずらかるぞ」


 小さな火花が弾ける音が聞こえた。目を向けた直後、警棒の先端に走っていた電流がカスイに押し付けられ、強烈な痛みが全身を駆ける。


 床に倒れるカスイ。意識が遠のく中、水汐が抱えられるのがぼんやりと見える。水汐の弱弱しい抵抗をものともせず、男が彼女を持ち上げた。


 「やだ、離して……」


 しかしその声は無視され、答えようとしたカスイは声を出すことも叶わず、意識を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る