第4話:連鎖反応
石川海斗(いしかわ かいと)は、唯(ゆい)との一件で仲間が受けた暴力沙汰に対し、ただ手をこまねいているつもりはなかった。暴力とは騒々しく、無秩序で、あの不器用な外国人が証明したように、予測不可能なものだ。海斗はそれを知っていた。
対して「権力」とは、静寂で、清潔で、そして絶対的なものだ。それは、たった一本の電話で行使される。
翌日、高級スーツに身を包み、革のバインダーを抱えた一人の男が、田中家が営む小さな生花店を訪れた。怒号も脅迫もなかった。ただ、一枚の公的な文書が冷ややかに手渡されただけだった。「優先的都市開発条項」――石川財閥によって発動された、緊急立ち退き命令だ。一家が七十年もの間守り続けてきたこの場所を明け渡すまで、彼らに残された猶予はわずか三十日だった。
その知らせは、途切れ途切れの母からの電話で唯に伝えられた。電話を切ったとき、彼女の顔からは血の気が完全に引いていた。体育館の裏で世話をしていたツツジの花が、急にちっぽけで無意味なものに見えた。「システム」――彼女が常に恐れていた、あの巨大で無機質な社会の歯車がついに彼女を捕らえ、その身体を軋みながら砕こうとしていたのだ。
パニックは、まるで彼女を溺れさせる海のようだった。友人には言えない、そもそも彼女には友人と呼べる人などいなかった。海斗に立ち向かうことなど、自殺行為に等しい。熱に浮かされたような絶望の中で、彼女の心はすがるべき「何か」を探し求めた。
脳裏に二つのことが浮かんだ。黒板に書かれた解けない方程式と、中庭で起きたあり得ない事故。その両方が、ある一人の人物に繋がっている。しかし、光(ひかり)アキヒコを頼ることは、あまりにも直接的で、あまりにも恐ろしかった……。
その時、彼女の視線が図書室にいる孤独な人影に止まった。 田中健次郎(たなか けんじろう)。 「ゴースト(幽霊)」と呼ばれる少年。
なぜかは分からないが、彼のその「不可視性」が、今の彼女には救いのように感じられた。少なくとも彼は、海斗が支配するあの騒々しく略奪的なシステムの一部ではない。
自分でも信じられないほどの勇気を振り絞り、唯は彼のテーブルへと歩み寄った。
「……田中くん」
健次郎は、ノートパソコンを落としそうになるほど激しく身を震わせた。驚きと、誰かに話しかけられたというパニックで見開かれた目が、彼女を見上げる。
「は、はい……?」彼はどもりながら答えた。
「あ……ごめんなさい、邪魔をして」彼女の声は、かろうじて聞き取れるほどのささやきだった。「見たの……この前の数学の授業で、あなたがやったこと。あなた、すごく頭がいいのね」
彼は顔を赤らめ、その褒め言葉に完全に毒気を抜かれた様子だった。「そ、そんなことないよ」
「いいえ、すごかった」彼女は強く言い、そして続けた。「私の家族……お店を取り上げられそうなの。石川財閥に。どうしたらいいか分からなくて。それで、思ったの……数学みたいに『システム』を理解している人なら……もしかしたら、何か見えるんじゃないかって。逃げ道が」
健次郎は彼女を見つめた。彼女の瞳には、濾過されていない純粋な恐怖があった。それは彼自身が毎日感じている恐怖と同じものだったが、今の彼女のそれは増幅され、現実的で確かな脅威となって固まっていた。彼の最初の本能は、拒絶し、謝り、そして逃げ出すことだった。
だがその時、彼は彼女の恐怖の向こう側を見た。彼が心の底から軽蔑している、あの腐敗したプログラムの犠牲者がそこにいた。そして、圧倒的な確信と共に悟ったのだ。彼女を見捨てることなどできない、と。
「僕に……何ができるか分からないけど……。でも……調べてみるよ」
その夜、健次郎は一睡もしなかった。彼はただひたすら、ネットの海に潜り続けた。市のサーバー、不動産登記簿、そして石川財閥の内部アーカイブへと侵入していく。しかし、どこに行っても結果は同じだった。「壁」だ。法的に完璧に密閉されたシステム。石川の弁護士たちは、あらゆる法の抜け穴を利用し、この収用を難攻不落のものにする完璧な仕事をしていた。
法的手段で勝てる確率は、0.00%。
だがその時、彼の頭の中で線が繋がった。海斗。屈辱。光。そして唯の家族への攻撃。これは偶然ではない、報復だ。問題の原因が「予測不可能なアルゴリズム」にあるのなら、解決策もまたそうあるべきなのかもしれない。しかし、自分では海斗に立ち向かえない。できる人間が必要だ。内部の人間が。
彼のカーソルが、生徒名簿のある名前の上で止まった。
佐藤春菜(さとう はるな)。
正気の沙汰ではないアイデアだった。彼女が話を聞いてくれる確率は低い。彼女が海斗に密告する確率は、それより遥かに高い。だが、何もしない場合の失敗確率は100%だ。早鐘を打つ心臓を抑え込みながら、彼はファイルを暗号化し、一時的なサーバーから匿名のメッセージを送信した。
匿名:視聴覚室。放課後。一人で来い。海斗と、あの新しい交換留学生について、君が興味を持つ情報がある。
翌日、春菜はそのメッセージに気づいた。最初の反応は無視することだった。どうせ罠か、くだらない悪戯だろう。だが、海斗と光の名前が並んでいることが彼女の好奇心を刺激した。それは、彼女自身が観察していたパターンと同じだったからだ。苛立ち混じりのため息をつき、彼女はそこへ向かうことにした。
薄暗い教室の中で、プロジェクターの光だけを頼りに待っていたのは、健次郎だった。
「アンタが私の時間を無駄にさせないリミットは5分よ、ゴースト」春菜の声は鋭く、冷たかった。
健次郎は生唾を飲み込み、ノートパソコンを接続した。スクリーンに映し出されたのは、光アキヒコの入学ファイルだった。
「これ」彼はデジタル的に完璧すぎるそのファイルを指差した。「これは本物じゃない。カモフラージュだ。分析したんだ。綺麗すぎる。経歴がない。痕跡がなさすぎるんだ」
春菜は片眉を上げた。「それで? 親が几帳面なだけかもしれないじゃない」
「違う」健次郎は譲らなかった。「そして、これが海斗がやったことだ」
彼は田中家の生花店に対する立ち退き命令を投影した。「これは報復だ。光に恥をかかされたからだ。海斗は、ただの癇癪(かんしゃく)のために、父親の権力を使って無実の少女の家族を破壊しようとしている」
春菜は腕を組んだ。その表情からは感情が読み取れなかったが、瞳の色は硬く冷徹なものに変わっていた。もちろん、彼女は知っていた。海斗がそれを自慢していたからだ。だが、こうして「透明人間」の少年によって事実を突きつけられると、それは新たな、そして不快な視点を彼女に与えた。
「で、私にどうしろって言うの?」彼女は尋ねた。「正義の歌でも歌ってやれと? これが私たちが生きている世界よ」
「君は内部にいる」健次郎の声は切迫していた。「君は彼の手口を見ている。君は、彼のような『非効率な残酷さ』を僕と同じくらい軽蔑しているはずだ。君の目を見ればわかる。君は弱さを好まないが、意味のない権力の乱用はもっと嫌いだ」
春菜は沈黙した。このゴーストは、彼女を読んでいた。彼女の鎧の隙間を見抜いていたのだ。
「この問題は」健次郎は続けた。「光の到着と共に始まった。彼こそが、システムを不安定にさせた『変数』だ。彼が何者なのかは分からない、でも見かけ通りの人物じゃない。そして今、海斗は一線を越えた。僕には彼を止める方法が分からない。でも、僕のデータ分析によれば、君のような社会的力学を理解している『内部エージェント』がいれば……結果を書き換えることができるかもしれない」
春菜は長い間、彼をじっと見つめた。怯えた透明な天才が、不可能な反乱に加われと彼女に求めている。馬鹿げている。危険だ。そして――ここ数年で聞いた中で、最も面白い提案だった。
「いいわ」ついに彼女は言った。そのため息は、諦めにも似た響きを持っていた。「持っているデータを全部見せなさい」
廊下では、半開きになったドアの死角に隠れて、光アキヒコがその会話のすべてを聞いていた。常人の目では捉えられないほど一瞬の微細な表情の変化が、彼の顔をよぎった。それは満足感ではなかった。仮説の立証だった。
「頭脳」と「戦士」が、今まさにリンクを確立した。システムが、自ら反撃を開始したのだ。
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