第3話:懐疑論者とデジタル自警団員

 翌日、ユイが「昨日の花では不十分だった気がする」と言ってまた別の花を贈ろうとした時、ヒカリは彼女の熱意に負けてそれを拒まなかった。


「わかった……わかったよ、受け取るよ。そんなに気を使わなくていいのに」 彼はそう言ったが、彼女はすぐに走り去ってしまった。


「感動的ね。ドジな騎士(ナイト)と、囚われの姫君ってわけ?」


 サトウ・ハルナがいつの間にか彼の席まで来ていた。彼女は招かれもしないのに、彼の前の席に腰を下ろした。


「まずは学校一の不良の肩を『つまずいて』外したかと思えば、次は不可能な方程式を『まぐれ』で解いちゃう。あんた、東京で一番運がいい男なのか……それとも一番ツイてない男なのか。どっちなの?」


 ヒカリは紙パックの牛乳を飲み、上唇に少し牛乳をつけたまま、間の抜けた顔で彼女を見た。


「どうかな……」彼は袖で口元を拭った。


 その反応は彼女の意表を突いた。この転入生が降参するか、あるいはもっと分かりやすい反応を示すと期待していたのだが、返ってきたのは無関心だけだった。ハルナは決して醜いわけではない。事実、学園一の美貌を誇っていた。それなのに、いつもなら通用する自分の魅力が、この「ドジな外国人」には全く効いていないことが信じられなかった。


 だが、彼女はそう簡単には諦めなかった。


「あら、そう?」ハルナは少し身を乗り出した。「ドジっていうのはランダムなものよ、アキヒコさん。カオスなの。でも、あんたがやってるのは……目的があるように見える。効率的すぎるのよ。そこには決定的な違いがあるわ」


 彼は一瞬だけ彼女の視線を受け止めた。その瞬間、ハルナは奇妙な感覚に襲われた。まるで荒れ狂う海の表面を見ているようで、同時にその深淵にある、微動だにしない静寂を覗き込んだような感覚。


「たぶん、たまに物事が……カチッとはまることがあるんですよ」ヒカリは視線を外して答えた。「物理って不思議ですよね?」


 ハルナは片方の眉を上げた。その答えは、はぐらかしであり、同時にある種の宣言でもあった。彼は何も明かさなかったが、彼女の直感は依然として警鐘を鳴らしていた。


「気をつけなさい、アキヒコさん」彼女は声を潜めた。「運っていうのはね、一部の人間の忍耐と同じで……いつか尽きるものよ」


 彼女は立ち去り、彼と、昼食と、花と、そして警告だけがそこに残された。


 その後、授業が終わり、ようやく夜が訪れた頃。3つのモニターだけが照らす部屋の中で、ケンジロウはもう恐怖を感じていなかった。彼を支配していたのは、理解したいという強迫的な欲求だった。学園の亡霊は、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)へと変貌していた。


 彼の指がキーボードの上を舞う。彼はコードを書いているのではない。コードと対話しているのだ。「ケツエキ」のネットワーク・セキュリティ障壁など、彼にとっては壁ですらない。単なる「提案」――彼の意志ひとつで曲げられるルールに過ぎなかった。彼はファイアウォールや暗号化プロトコルを、まるで囁き声のようにすり抜けていった。彼の唯一の標的は、『ヒカリ・アキヒコ』。


 一分とかからずに彼はそれを見つけた。そして瞬時に、何かがおかしいと悟った。


 怪しい点が何もないのだ。それが問題だった。


 ファイルは完璧だった……。


「えっ?」


 あまりにも無垢だった。すべての書類には誤字ひとつなく記入されている。アルゼンチンの前の学校からの成績証明書は、非の打ち所がないほど完璧に翻訳されていた。プロフィール写真は完全に中央に配置されている。職員によるメモも、添付されたメールも、乱れたメタデータもない。それは無菌室のような、殺菌されたデジタルファイルだった。


 人間のファイルはもっと汚いものだ。ミスがあり、修正があり、それを扱った官僚たちの指紋が残っている。だがこれは違う。これは編集されたものではなく、生成されたもののように見えた。ケンジロウはさらに深く潜り、ファイル自体のバイナリ構造、作成日時のタイムスタンプ、管理者のデジタル署名を解析した。すべてが揃っていた。すべてが正しかった。


 正しすぎた。あまりにも綺麗すぎて、そこには誰も住んでいなかったと気づかされる部屋のように。


『これはファイルじゃない』 背後のソースコードを目で追いながら、彼は思った。 『カモフラージュだ』


 あのアルゴリズムは物理法則の操り方を知っているだけではない。自らの物語(ストーリー)を書く術さえ心得ている。ケンジロウは今、その最初の一ページを見つけたのだ。


 そして、そこからそう遠くない別の場所で、若きヒカリは微笑んでいた。彼は完璧なプロフィールを持つことが何を意味するかを知っていた。 なぜなら、歯車は動き出さなければならないのだから。

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