第5話:紙の根
視聴覚室は、彼らの聖域であり、同時に独房とも化した。 二日間、健次郎と春菜はその場所に籠りきりだった。プロジェクターの光だけが、企業の権力構造図や、迷宮のような定款(ていかん)を闇の中に浮かび上がらせている。健次郎は水を得た魚のようにデジタルと法的な影響力のラインをたどり、春菜は残酷なまでの現実主義で、人間の弱みや腐敗した忠誠関係を指摘していく。
二人は奇妙なほど効率的なチームだったが、結局は同じ壁にぶつかっていた。
「これは法的な要塞よ、健次郎」春菜は画面上の文書を指差して言った。「隙間がない。石川の弁護士たちは、市の権力をまるで攻城兵器(ラム)のように使ってる。すべてが……反吐が出るほど合法的だわ」
「分かってる」健次郎は髪に指を通しながら答えた。「どのファイルもそれを裏付けてる。過去五年のすべての取引、発行された許可証、全部確認した。完璧に密閉(シール)されているんだ」
彼は椅子に背中を預けた。芽生えかけた勇気が、敗北の重みで押し潰されそうだった。唯は彼を信じている。なのに、彼は彼女の期待を裏切ろうとしている。
その時、教室のドアが開いた。
光アキヒコが入ってきた。崩れ落ちそうな本の山をジャグリングするように抱えている。彼もまた、そこに二人がいることに驚いたようだった。
「あ! すみません」彼はビクリと身を震わせ、一番上の本が滑り落ちそうになった。「誰もいないと思って……ただ静かな場所を探してて……おっと、危ない!」
本がドサリと大きな音を立てて床に落ちた。それを拾おうとかがんだ彼の視線が、プロジェクターのスクリーンに止まる。
「商業第4区画の収用案件……」彼は二人に対してというより、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
春菜が立ち上がり、瞬時に防御の姿勢をとった。「アンタ、何を知ってるの?」
光は体を起こし、拾った本を盾のように胸に抱えた。「何も。ただ……地元のニュースで読んだだけです。田中さんのお店のことですよね? あの花屋の女の子の」
健次郎は頷いた。パニックを感じる気力さえ残っていないほど、彼は消耗していた。 光はそこに立ち尽くしていた。帰るべきか留まるべきか迷っているようだった。やがて、彼は口を開いた。
「立ち聞きしてしまってすみません……でも……あなたたちは、問題の捉え方を間違っています」
春菜は腕を組んだ。「へえ? ご教示願おうか、間の抜けた天才クン。正しい方法ってのは何?」
光はその皮肉に気づかない様子だった。
「あなたたちは『要塞』を分析しています。その壁、防衛設備、現在のプロトコル。だから弱点が見つからないんです。今のままのシステムを攻撃しようとしている」彼は画面の文書を指差した。「あるがままのシステムではなく、かつてあった姿を探すべきです」
健次郎は顔を上げた。疲れた目に、微かな興味の光が宿る。「どういう意味?」
「建物は宙に浮かんで建てられるわけじゃありません」光は説明した。「土地の上に建ちます。そしてその土地には歴史がある。古い法律、忘れ去られた条例、何十年も見直されていない地役権(ちえきけん)。あなたたちは過去五年を分析している。見るべきは、過去五十年です」
春菜は彼をじっと見つめた。「あら、ドジな交換留学生はいきなり法務戦略家になったわけ? 何が狙いなの、アキヒコ。なんでアンタが気にするのよ」
光は彼女の方を向いた。初めて、彼は視線を逸らさなかった。その表情はもう、間の抜けた道化のそれではない。静謐で、思慮深く、そして奇妙なほどに「老成」していた。
「これほど目に余る不均衡……」彼は静かに言った。「これほど強大な力が、これほど小さく無垢なものを踏み潰すために使われるのは……物事の自然な理(ことわり)に反します。僕にはそれが、誤った答えを出すよう無理やり捻じ曲げられた方程式のように見える。だから、正さなければならないと感じるんです」
健次郎は戦慄(せんりつ)を覚えた。彼は単に法律の話をしているのではない。春菜もまた、食堂で感じたあの感覚を思い出していた。欺瞞に満ちた表面の下に隠された、広大で静かな何かに対峙している感覚だ。
「五十年の市政アーカイブだって?」健次郎は言った。「そんなの……テラバイト級の情報量だ。地図、法令、議会議事録。分類するだけで数週間、いや数ヶ月はかかるよ」
「何を探すべきか分かっていれば、そうでもありません」光は答えた。「そして、それを処理する適切なツールがあれば」
彼はドアの方へ歩き出し、そこで立ち止まって二人を振り返った。それは、後戻りできない境界線だった。
「僕の家へ。今夜。必要なリソースはあります。それと、かなりまともなネット回線も」
彼は教室を出て行った。残されたコンピュータの天才と社会戦略家は、呆然とした沈黙に包まれた。二人は顔を見合わせた。正気の沙汰ではない。自分たちの世界をひっくり返した「歩く特異点」を信用するなど、計算不可能なリスクだ。
だが彼は、システムを突破した唯一の変数だった。
「……新しい方針が決まったみたいね」春菜はようやく言った。その溜息は半分が苛立ちで、もう半分は彼女自身も名付けようとしない感情だった。
健次郎は頷き、ノートパソコンを閉じた。数日ぶりに、失敗確率が100パーセントではなくなった。
光は自宅に来るよう言ったが、最初に向かったのは逆方向――「田中生花店」だった。夕暮れの街を唯が案内し、春菜は動じない自信を持って歩き、健次郎はアスファルトが自分を密告するのを恐れるかのように俯いて歩いた。光だけが、場違いなほど落ち着いた様子で街の流れを眺めていた。
店はコンクリートジャングルの中にある、生命の小さなオアシスだった。唯の両親は、歓待と警戒の入り混じった様子で彼らを迎えた。
「学校のお友達かい?」父親の田中氏が、土で汚れたエプロンで手を拭きながら尋ねた。
唯は何と答えていいか分からなかった。友達? お互いのことをほとんど知らないのに。 前に出たのは光だった。彼は作法に則った正確なお辞儀をした。
「田中様。私の名前は光アキヒコと申します。偽りの希望を売りに来たわけではありません。ただ、信頼していただきたいのです。我々は石川財閥が何をしているかを知っています。そして、彼らを止める方法があると考えています」
田中の妻は首を振り、静かに涙を流した。「あんたたち……弁護士とも話したのよ。打つ手はないって。すべて合法なんだって」
「現在の法律は、彼らの武器です」光は同意した。「だからこそ、彼らの戦場で戦ってはなりません。石川の強さは新しい。鋼鉄と、最近の契約書の上に築かれています。ですが、あなた方の家族の強さは古い。この土地と歴史の上に築かれている。新しい要塞は騒々しいものですが、古い礎(いしずえ)は深いのです」
その言葉は田中氏の心を捉えた。光は彼を、一人の経営者としてではなく、遺産の守人(もりびと)として扱ったのだ。
「解決策を見つけるために」光は続けた。「石川の図面を見る必要はありません。見るべきは、あなた方のものです。お持ちの書類、すべてが必要です。現在の権利書だけではありません。すべてです。相続書類、古い建築許可証、祖父母の代の納税記録、この店の創業にまで遡るあらゆるものを。答えは彼らの強さの中にはない。あなた方の『根』の中にあります」
長い沈黙があった。田中氏は目の前の少年の顔をじっと見た。年齢を裏切る真剣さ、傲慢さからではなく深い知恵からくる自信。そして、奇妙な安心感を与える健次郎のオドオドした頷きと、「踏みにじらせはしない」と物語る春菜の鋭い視線を見た。
ついに、男は溜息をついた。 「家内と私には……もう失うものはない。ここで待っていてくれ」
数分後、彼は使い古された木箱を持って戻ってきた。中には黄ばんだ紙の束や、色褪せたリボンで縛られたファイルが無造作に入っていた。紙とインクに還元された、彼ら家族の歴史だ。
「私たちの人生のすべてがここにある。どうか……気をつけてくれ」
光はまるで聖なる遺物を受け取るかのように、両手でその箱を受け取った。「我々のものとして、大切に扱います。信頼してくださり、感謝します」
光が教えた住所は、マンションなどではなく、古く静かな地区へと彼らを導いた。彼らが立ち止まったのは、区画全体を囲んでいるのではないかと思えるほどの塀に嵌め込まれた、重厚な木製の門の前だった。
「冗談でしょ?」春菜が呟いた。
「両親は……歴史家でしたので」光は、まるでそれがすべてを説明するかのように言った。
彼らは家に入ったのではない。一つの世界に入ったのだ。手入れの行き届いた庭の砂利道が続き、赤い葉をつけたイロハモミジが、鯉の泳ぐ池に枝を垂らしている。
母屋は、深い軒と引き戸を持つ伝統的な日本家屋だった。その大きさは圧倒的だ。敷地の奥には、もっと小さく質素な、しかし紛れもない「道場」のシルエットが見えた。
健次郎は、マトリックスのバグ(不具合)に迷い込んだような気分だった。データが一致しない。経歴のないドジな交換留学生が、学園の理事会全員の資産より価値がありそうな屋敷に住んでいるなんて。
光は彼らを広間へと案内した。そのコントラストが再び彼らを打ちのめした。畳が敷かれ、書画が飾られた伝統的な空間の中央に、学園のコンピュータ室が悔し泣きしそうなほどの機材に囲まれた巨大な座卓があったのだ。複数のモニター、静かな駆動音を立てるラックマウントサーバー、そして高精細プロジェクターが何も書かれていない壁に向けられている。
彼は田中家の木箱を座卓の中央に置いた。未来のテクノロジーに囲まれた、前世紀の遺物だ。
「さて。ここからが始まりです。健次郎君、君にはこれらすべての文書のデジタル化を頼みます。高解像度スキャナーを使って。OCR(光学文字認識)処理をして、日付とキーワードで相互参照できるデータベースを作ってください」
命令のあまりの明確さに呆然としていた状態から引き戻され、健次郎は頷いた。このような機材を前にして、彼が拒否できるはずもなかった。
「春菜さん」光は彼女の方を向いて続けた。「君の視点が必要です。スキャンが進む間、この地区の過去七十年の開発計画を見直します。パターン、人名、政治的なコネクションを探してください。少しでも不自然なものがあれば、何でも」
その口調はクラスメイトのそれではなかった。軍を展開させる将軍のそれだ。
「で、アンタは何をするわけ?」春菜は腕を組み、驚きと対抗心の入り混じった様子で尋ねた。
光は座卓の前に胡座(あぐら)をかいて座った。「僕は、読み解きます」
彼は一瞬、目を閉じた。 田中生花店のための戦争は、叫び声ではなく、スキャナーの静かな駆動音と、古びた紙が擦れる音と共に始まった。
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