[第3話]どうか叶えて

 目を覚ますと、真っ暗な谷底だった。

「ごめん、農花」

 その声を聞くだけで分かる。

 自然と、体の力が抜けていく。

「お母さん……? やっと見つけてくれた……?」

 そちらを見れば、母が立っている。辛そうな顔をした母が。

「お母さん、大丈夫……?」

 ゆっくりと声をかけると、母は首を横に振った。

「……違う。今は私じゃないのよ農花……」

 一歩、二歩とこちらに歩み寄る。すぐ隣に来て、そっとしゃがみ込んだ。

「今は、あなたなの。あなたが、何よりも心配なのよ。農花」

 少し必死で、やはり辛そうな顔だった。声は、涙で震えている。

「ごめんね。お母さん、だらしなくて。……頼りなくて。……役立たずで、頭も、悪くて……!」

 そこまで言って、母は口をつぐんだ。

「……謝るなら、早く戻ってきてよ! ……私を置いてかないでよ!」

 混濁した感情を吐きつける。

 母は、しばらくは静かに泣いていた。ただ、ずっと私の目を見ながら。

 そうして、泣いて泣いて、ようやく呼吸を落ち着かせた。

「……農花。覚えてる? 私が『農家だから農花』って付けたの」

「……うん」

「────────」

 その言葉を聞いて、私は初めて見せた。

 満面の笑みを。


      *


 本当の目覚めは、案外早かった。

 風のない、温かい空間。妙に柔らかい床。小さな蒸気が噴き出すような音に、遠くから聞こえるピアノの音。

「お、気がついた」

 知らない声。これで確信した。

 これが現実だ。


 私が寝ていたのは、綺麗なソファだった。暖かい毛布までかけられていた。

 周りを見渡してみれば、まるで別世界のようだった。天蓋のついた大きなベッドに、戸棚。その中にある細やかなガラス細工。別の背の高い棚には本がびっしりと詰められている。さらに床に足を着いてみれば、ふかふかのカーペットだった。

 信じられない光景に、私は息を吐くことすら恐ろしかった。

「いや、思ったんだけどさ」

 その時、両手にマグカップを持った少年がこちらに歩いてきた。

 とっさに背筋を伸ばすも、少年は特に気にしていないようだった。

「君たちって、死ぬほど頑丈だよね」

 その言葉に、私は一瞬首をかしげた。

 すると、少年がこちらに目を合わせて笑う。

「あ、別に悪い意味じゃないよ?」

 気づけば、私は温かいマグカップを両手で持っていた。

「……あ」

「あ、ちょっと熱いかもだから気を付けて。マズかったら別に飲まなくてもいいし」

 少し早口で言われ、私は一瞬戸惑う。

 そもそも、ここはどこだ。なぜ、私がこんな綺麗な部屋に入っているのだろう。どうして、こんなにも扱いが良いのだろうか。

「……いただきます。……あぁ、やっぱりウマいなぁコレ」

 少年はその熱を感じるように喉を撫でていた。

 それを見てしまったら、もう飲まずにはいられない。


 一体何が起こっているのか。何も分からない。自分の身のことすら分からない。

 それでも、私は口をつけた。理由は、「飲みたかったから」。

 私は求めた。そして、それを初めて叶えたのだった。

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