未知の返信(アンサー) ~壁越しに響く、30年を超えた恋の暗号~

ソコニ

1話完結 未知の返信(アンサー)

1

「世界で一番静かな人間」として、私は生きている。

2026年。全人類の脳には「Link(リンク)」が埋め込まれ、思考と感情が0.1秒で共有される。教室にいる40人全員の「今日の昼飯何にしよう」という雑念から、隣の席の男子の「あの子可愛いな」という欲望まで、すべてが波のように流れ込んでくる。

でも、私の脳には何も届かない。

チップが故障してから3年。私、天野ミナは17歳の「オフライン人間」だ。

放課後の無人教室。夕陽が机の木目を赤く染めている。クラスメイトはとっくにLinkで「カラオケ行こう」と連絡を取り合って消えた。私だけが取り残される。いつものように。

窓を開けると、秋の風が頬を撫でる。

その時だった。

コン、コンコン。

乾いた木を叩くような音が、空中から聞こえた。

私は息を止めた。Linkには何の信号も表示されない。誰もいない教室に、確かに「音」だけが存在している。

幻聴? それとも新しい故障?

震える指で、目の前の机を叩いてみる。

コン。

数秒の沈黙。

すると——

コン!

弾んだような、嬉しそうな音が返ってきた。

私は壁に向かって駆け寄り、両手を当てた。冷たいコンクリートが掌に張り付く。もう一度、強く叩く。

コン、コン、コン。

コン、コン、コン!

即座に返ってくる。まるで「ここにいるよ」と言っているように。

私の頬を、久しぶりの涙が伝った。3年ぶりに、誰かが私に「返信」してくれた。


2

その日から、私の放課後は「壁との会話」になった。

相手が誰なのか、どこにいるのか、まったく分からない。ただ、リズムだけが交わされる。

最初は単純な「おはよう」と「おやすみ」だった。

トン、トン(ここにいる)

トン、トントン(待ってる)

でも、日が経つにつれ、リズムは複雑になっていった。

トトトン、トン、トトトン(嬉しい)

トン……トン……トン……(会いたい)

言葉はないのに、不思議と「意味」が伝わってくる。Linkよりも、ずっと確かに。

ある夜、私は自分の部屋の壁に耳を当てた。0時を過ぎても、相手はそこにいた。

私が壁を優しく撫でると、向こう側から「サーッ」という微かな摩擦音が返ってくる。

壁越しに、誰かの手の温もりを感じた気がした。


3

1996年10月17日。

工藤タクミ(17)は、自分の部屋の壁から聞こえる奇妙な音に困惑していた。

コン、コンコン。

最初は隣の家の工事だと思った。でも、深夜0時に工事なんてあるわけがない。

彼の部屋には、レンタルビデオ店で借りた『ターミネーター2』のVHSテープが積まれ、机の上にはポケベルと、技術の授業で使った「モールス信号表」が散らばっている。窓際のラジカセからは、スピッツの『ロビンソン』が小さく流れていた。

試しに壁を叩き返してみた。

コン。

すると——

コン、コン、コン!

まるで生き物のように、リズムが返ってくる。

タクミはモールス信号表を引っ張り出したが、この音はモールスじゃない。もっと自由で、感情的だ。

「誰だ、お前……」

彼は壁に向かって呟いた。返事はない。言葉は届かない。

でも、音だけは届く。

彼は五線譜ノートにリズムを記録し始めた。毎晩、同じ時間に現れる「壁の向こうの誰か」と、言葉なき対話を続けた。

窓の外では、街灯の下で友人たちがポケベルを見ながら笑っている。「早く返信しろよ〜」という声が聞こえる。

でも、タクミにとって本当に大切な返信は、この壁の向こうにしかなかった。

ある日、彼は壁を撫でた。優しく、ゆっくりと。

すると、向こう側から同じように「サーッ」という音が返ってきた。

彼の胸が熱くなった。カセットテープを巻き戻す音が部屋に響く中、彼は確信した。

この音の向こうには、確かに「誰か」がいる。


4

それから3ヶ月。

私とタクミ(私は相手をそう呼ぶことにした)は、独自の「暗号」を作り上げた。

トントン、トン=ここにいるよ

トトトン、トン、トトトン=嬉しい

トン……トン……トン……=会いたい

でも、本当の名前は知らない。顔も知らない。ただ、この「不便さ」が愛おしかった。

Linkで繋がった世界では、相手の感情が流れ込みすぎて、かえって「本音」が見えなくなっていた。でも、壁の音は嘘をつけない。

ある日の放課後、私は壁に耳を当てながら呟いた。

「あなたは、どこにいるの?」

答えは返ってこない。でも、壁の向こうから心臓の鼓動のような、ゆっくりとした二拍子が聞こえた。

トン……トン……トン……

私は涙を拭いて、同じリズムで返した。


5

2026年1月12日。

私の異常が、ついに「システム」に検知された。

Linkの管理AIは、私の脳内チップが発する「異常振動(壁を叩く動作)」を「精神疾患の兆候」と判断した。

診断結果:強制再起動が必要。メモリ消去まで、あと5分。

教室の壁に向かって、私は泣きながら叫んだ。

「ねえ! 聞こえる!? 私、もうすぐ消えちゃうの!」

言葉は届かない。それでも、私は必死に壁を叩いた。

トン、トン、トン、トン、トン!(助けて)

向こう側から、激しいリズムが返ってくる。

トントントントン!(待って!)

私は震える指で、最後のメッセージを刻んだ。

トトトン、トン……トン……トン……(愛してる。30年後も、ずっと待ってる)

そして、世界が真っ白になった。


6

記憶を失った私は、普通の「オンライン人間」として、空虚な日常を送っていた。

Linkで繋がった世界は便利だけど、どこか冷たい。毎日が、他人の感情に流されるだけの時間だった。

2026年10月17日。

駅前のスクランブル交差点を渡っていると、向かいから歩いてくる背の高い中年男性とすれ違った。

グレーのスーツ。眼鏡。少し疲れた表情。

彼は一瞬だけ、私を見た。

そして——

彼の右手の人差し指が、無意識に何かを刻んでいた。

トン……トン……トン……

私は立ち止まった。でも、彼はもう雑踏の中に消えていた。

胸の奥が、キリキリと痛んだ。

理由は分からない。


7

その日の午後、私は古いアンティークショップの前を通りかかった。ショーケースに、30年前の木製机が展示されている。

その天板に、彫刻刀で深く刻まれた文字があった。


1996年10月17日

ここで君のノックを聞いた。

君が誰だか分からない。でも、君の音は本物だった。

もし30年後の未来で、君がこれを読んでいるなら——

俺はこの時代から、君の知らない場所で、世界を少しだけ優しくする。

たとえ君が俺を忘れても、俺は君を忘れない。

だから、どうか笑っていてほしい。

壁の向こうの君へ。

——工藤タクミ


その瞬間、私のLinkが切断された。

理由は分からない。でも、胸の奥から何かが込み上げてきた。

私は机に手を当てた。冷たい木の感触。そして、遠い記憶の中で、誰かが壁を叩く音が聞こえた気がした。

コン、コンコン。

「……ありがとう」

私の目から、自分の意志による涙が溢れた。

世界は0.1秒で繋がっても、私はあなたを待つ1秒を選ぶ。


エピローグ

それから数日後、私は図書館で古い新聞記事を見つけた。

「1996年、謎の通信技術を開発した高校生、工藤タクミ氏が起業」

記事には、白黒の写真が載っていた。眼鏡をかけた、優しそうな少年。

彼が開発したのは「非同期通信技術」——相手のタイミングを尊重し、即座に繋がらないことで、かえって心の距離を近づける技術だった。

それが、後に全世界の「Link」の基礎理論になったという。

私は笑った。泣きながら、笑った。

ああ、そうか。

あなたは、ずっと私のそばにいたんだ。

スマートフォンを取り出し、Linkを一時的にオフにした。

静寂が訪れる。

その中で、私は自分の指で机を叩いた。

トン……トン……トン……

誰にも届かない。

でも、それでいい。

この1秒は、私だけのものだから。


【終】


『未知の返信(アンサー)』

世界は0.1秒で繋がっても、私はあなたを待つ1秒を選ぶ。

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