ある約束
約束をしてもそれを守らないできたから、いつしか約束されなくなっていた。
べつに悪意をもって破ったことは一度もない。守らないというのは客観的な事実で、主観を入れればそれは心外で、実際には守れないのだ。一応守ろうという心積もりはあるし、あったし、努力もしたはずが、なぜかしらこういう結果になってしまったことは、自分で自分を憐れみたくなるくらいには残念で不思議だった。
たとえば、昼休みに「一緒に行こう」と言われて立ち上がるその一瞬で、呼び出しの電話が鳴る。
週末に「借りた本返すね」と言われて待っていると、緊急報告の書類が机に積まれている。
「今度、手伝うよ」と言った約束も、気づけば期限が過ぎていて、相手のほうが自分の分まで終わらせていた。
内通社の任務が理由といえば理由だが、それを言い訳にするのは違う気がした。自分より忙しい人はいくらでもいるし、もっと重い仕事を抱えている人も多い。
だからこれはきっと、そういう『巡り合わせの悪い人間』なのだ。
高沢はそう思うことにしていた。
その夜も帰りは遅かった。
寮の廊下の蛍光灯は半分が切れていて、明るいところと暗いところの差が大きい。足音が照明の継ぎ目で音を変える。
食堂では、いつもの三人――川田、山田、土田が、鍋の底をつつきながら夜食を分け合っていた。
「おー、高沢! 帰ってきたか!」
「なんとか」
「また残業?」
「報告が長引きました」
高沢が席に着くと、川田が鍋を覗き込んで「味噌、薄いけど飲む?」と聞く。
「いただきます」
湯気の向こうで、山田がにやにやしながら言った。
「そういえば今日、掃除当番だったけど来なかったな。明日交代な」
「え、あれ今日でしたっけ」
「ほら出た、またそれ」
「違う、覚えてたんですけど……間に合わなかっただけで」
言い訳のような声に、川田が笑いながら肩をすくめた。
「間に合わなかった、ね。便利な言葉だな」
「でもさ、そういう奴がいないと案外まわんないもんなんだよ」
「どういう意味です?」と高沢が聞くと、土田が箸を止めて言った。
「全員が約束きっちり守ったら、誰も予定ずらせないでしょ」
「……」
意味はすぐにはわからなかったが、言葉の端に優しさが滲んでいた。
食堂を出たあと、寮の窓の外をふと見る。
表の電話ボックスがぼんやりと光っている。そこでは、いつものように誰かが大声で話している声がした。
――あの人だ。交換屋。
高沢はいつも携帯電話の電源を切ってから寝る。もし呼ばれたとしても、気づかないままでいたい。
約束を守れないのに、代償を払う気にもなれない。だから交換屋の利用者にもなれない。
明日もきっと、何かを約束して、守れずに、落ち込んで、またここへ帰ってくる。それでも、川田たちは笑って迎える。その笑いのぬるさが、何よりの救いだった。
窓の外、かすかに光る電話ボックスの明かりを見て――明日も、同じ夜が来る気がした。
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