ある報告者

 夜の社員寮前はいつも騒がしい。


 風呂屋の明かりのほうから、またあの三人の声が聞こえてくる。


 「やっぱトイレから風呂は近道だな!」


 「ていうか、掃除サボっただろ!」


 「してたしてた! 泡立てまで完璧!」


 「泡立てはいらん!」


 騒音混じりの笑い声の中を、佐伯縁は書類を小脇に抱えて歩いていく。


 電話ボックスの前には、今日も順番待ちの列。みな、それぞれの『報告』をしているらしい。


 しかし縁は列に加わらない。彼は一本脇の通りを曲がり、少し離れたアパートの階段を上がる。


 ノックを二度。中から「どーぞー」という間延びした声が聞こえた。


 「縁くんてさぁ、説明下手だよねー」

 相変わらず濃すぎるコーヒー片手に、四角い薄切りチーズをもちゅもちゅ食べながら、巨大ビーズクッションを無理やり乗せた椅子の上で器用にバランスを保つ花村ののかは、声に変な抑揚をつけてそう言った。


 一人暮らしにしては広い部屋で、天井照明はなく、白い壁の下に等間隔に並べられた懐中電灯が下から照らしている反射で薄明るさをとっている。

 何度来ても慣れないそんな部屋で、縁は今日の仕事が円滑に終わった報告をした。


 「長くなってしまってすみません」


 「いや、なんか余計なことはないんだけど。なんとなく回りくどいんだよね」


 「すみません」


 「いや、そういう仕事なんだけどね」


 ののかはそう言って、机に積まれた書類を一枚ずつめくる。その指先の動きは、どこかリズムがある。彼女はいつも、報告内容の文体や言葉の選び方を見て、相手の『隠しごと』を読む。それが彼女の仕事だ。


 「……あの、気になる点とかありましたか?」


 「うーん、ないような、あるような?」


 「どちらでしょう」


 「んー。たとえばね、これ」


 ののかが紙の一部を軽く叩く。そこには、縁が今日接触した対象の記録があった。


 『交換屋』という名前が、小さく一度だけ出てくる。


 「この人、まだいるんだ」


 「え?」


 「昔、うちにも電話かけてきたことあったんだよ。『情報と引き換えにあなたの眠りを』とか言って」


 「……それ、交換したんですか?」


 「いやー、眠れなくなったら困るよねー」


 ののかは笑った。


 その目の下には、うっすらとした隈がある。


 報告が終わると、縁は「お疲れ様でした」と頭を下げ、部屋を出る。廊下の先で、ビーズクッションがきしむ音がした。あの柔らかな音が、まだ耳の奥で揺れている。


 外に出ると、夜風が冷たい。寮の方角からは、風呂屋のざわめきと笑い声。



 ふと見ると、電話ボックスの明かりがまだ灯っている。誰かが、長い長い通話を続けていた。それが誰なのか、縁は知らない。


 けれど、あの明かりはいつの夜も、確かに点いている。

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