ある研究所
朝、つけた時から違和感はあったものの、時間もそこそこ押していたので直すことはせず出かけてきて、ここで、左目のコンタクトレンズがずれている実感が湧いた。
何度瞬きをしても視界の歪みは改善されず、むしろ縁にかかって外れそうになっている。保存容器も洗浄液も持っていない。
困ったものだ、と岩丸は眉間を押さえた。
研究所の白い廊下は、朝から人が多い。どこからか、焦げたようなにおいが漂ってくる。実験室のひとつで何かが失敗したのだろう。
「――おはようございます、先生」
「ああ……おはよう。なんだ、君か」
助手の女が、資料の束を抱えて駆け寄ってきた。髪をきっちりまとめ、白衣の裾も整っている。完璧な身だしなみだ。彼女の笑顔を見ていると、ずれたコンタクトが余計に気になる。
こんなとき、研究所に入れば視力なんていくらでも直せるだろうな、と思ってしまう。
「朝の会議、もう始まってますよ」
「知ってるよ。だから今向かってるんだ」
不機嫌に言い返したつもりはない。だが彼女はぴたりと口を閉じ、それ以上何も言わなかった。無表情でもない、怒っているでもない。ただ、反応しない。
岩丸は小さく咳払いをして歩き出した。
会議室。
長机の上には、分厚い資料。プロジェクターの光に照らされた顔がいくつも並ぶ。
「それでは岩丸先生、前回の実験経過報告を」司会役の声。
岩丸は立ち上がり、資料を手に取った。ぼやける左目をこすりながら、読み上げようとして、思わず口を止めた。
――何の研究だったか、思い出せなかった。
いままで確かにやっていた。毎日データを整理し、報告書を書き、助手に指示を出していた。だが、肝心の『研究内容』がすっぽり抜け落ちている。
脳のどこかに蓋をされたような感覚。視界の歪みと、胸の中の空白が、同じ場所にあるような気がした。
「……はい、ええと。試料群Aについては、概ね、予想通りの――」
「おぉお!」
会議室の奥で、唐突に響いた相槌に、岩丸は思わず声の主を見る。
名前を知らない男。どこかで見た顔。
だが誰も気にしていない。他の研究員たちは、当然のように頷いている。彼は以前からそこにいたかのようだ。
会議が終わっても、左目は痛かった。
「先生? 顔色が悪いですね、大丈夫ですか?」
「まったく、大丈夫なもんかっ」
即答してしまって、慌てて声の主を確認すると、助手の彼女だった。名前は一体なんだったか。名乗ってもいなかったような。
「え。お仕事に差し障りがあるようでしたら、ご相談にお乗りしますよ」
にこにことそんなことを言ってくれる彼女は美人で、年上だが立場上の敬語を崩さない謙虚なところが、岩丸は気に入っていた。
だが、少々仕事に熱心すぎるきらいがある。仕事にだけに、熱心だ。
「いや、いい。私情で、機嫌が悪かった。上司がそんなんじゃすまないね」
「いえいえ、そんなことありませんよ」
ほらすぐに、彼女の注意は手元の資料へと移っている。仕事に影響さえしなければ関係ないのだ。
岩丸としても、特別に思ってほしいというわけではないが、寂しいと言えばそうだった。
部下と和気藹々なんて期待してきたものだが、ずいぶん淡々とされたんじゃなあ。でも、彼女、優秀だしなあ。
「そういえば君、名前は?」
「へ?」
彼女は意外なほどに意外な顔をした。
「あー……名前、ですか?」
「そうだ。名前くらい知っとかないと」
言った瞬間、自分でもぞっとした。聞いてはいけないことを聞いた気がした。名乗りもせず仕事に就いた彼女の怪しさに気づいて、今更そこを突いてしまった重大さを感じる。
「言いませんでしたっけ?」
でも彼女は一定のテンションを保ったまま、資料を机でたんっ、と揃えた。
「A子ですよ」
その夜。
岩丸は研究所を出て、帰り道の途中で立ち止まった。
いつも通る風呂屋の明かりが見える。その隣には電話ボックス。
ガラス越しに、聞き覚えのある声がした。
「――ええ、もちろん。代償は『記憶』でも構いませんよ。何かを忘れれば、それと交換で何かが手に入る。とても単純な理屈でしょう?」
風が吹き抜ける。
岩丸は目を閉じた。ずれたコンタクトが、とうとう外れて、地面に落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます