ある電話
夜風に乗って、あの独特の声が響いた。
風呂屋の前の電話ボックス。内通社の社員寮の誰もが一度は順番を待ったことのある、あの場所だ。
「あ、俺だけど。俺おれ。いや、だいちゃんじゃなくて俺。わかんないの? なんてねー。あ、大丈夫ですよ、本当は全然知り合いじゃないですから、認知症のご心配はしなくて。私はこういうものです。……あ! いま電話に向けて名刺出してました! あははっ、どうも失礼しました。私は交換屋と自称している者です。どんなものでもどんなものとでも交換して差し上げる仕事をしています。ですからお金が払えない方もお気軽にご相談していただけますし、交換するのはお金以外でも、物ですらなくても承ります。ごく普通にお金と労働力を交換したい方から、家宝の壺と交換に行方不明になっていた娘さんを探して欲しいなんて方もいらっしゃいましたが、ちゃんとすべてご希望通りに交換致しました。しかし誰しも本当の欲というものは人前で語ることができないもののようでして、こちらが看板を掲げていてもなかなかご相談してくださらないんです。そこでお電話させていただいたんですが、ご興味持っていただけましたか?」
その声は、ガラス越しでもはっきりと聞こえた。
誰もが知っている。交換屋の電話の時間は長い。順番待ちの列は静かに、それでいて退屈そうに伸びていく。まるで夜の儀式のように、誰も文句を言わない。
「ええ、ええ。はい、そうでしょうとも。……え? 『そんな馬鹿な』って? いやあ、それが馬鹿じゃないんですよ。ほんとに何でも、交換できるんです」
電話ボックスの外では、数人の通行人が立ち止まり、苦笑混じりに振り返っている。
夜風が吹くたび、ボックスのドアがかすかに震える。交換屋はその振動に合わせて、まるでリズムを取るように笑った。
「ええ、では……どうぞご検討ください。え? 連絡先ですか? あー、それが、ないんですよねぇ。こちらからまたかけますので。……はい、ええ。では!」
寮の三階の窓から、川田たちの笑い声がこぼれる。
誰かが風呂上がりに鼻歌を歌っている。
そして、そのさらに奥の部屋で、一人の男が洗濯物を干していた。
約束を守れない男。
彼の部屋の時計は止まっている。だが本人はそれを直そうとしない。止まったままの針を見て、ふと溜め息をつく。
窓を開けると、ちょうど電話ボックスの声が聞こえてきた。
「――ええ、ええ。もちろん。代わりに欲しいものが『普通の生活』ですか。ええ、私としては大歓迎ですとも。問題は、あなたが『何を差し出せるか』ですよ。……え? 何もない? 本当に? 嫌ですねえ、私ができるのはあくまで交換なんですよ」
男は窓の縁に手をかけて、夜空を見上げた。言葉の意味を考えるまでもなく、胸の奥がざわつく。
交換。代償。報酬。
いつもその三つがつきまとう。自分は何も守れていない。明日の約束も、昨日の約束も。誰かに頼まれたことも、自分で決めたことも。どれひとつとして、最後まで果たせたためしがない。
守れないから、もう誰も約束をしなくなった。約束のない生活は静かで、でも息苦しい。
男は小さく笑った。答えるようにでもなく、ただ自分に向かって。
「……何も。差し出すものなんか、何もない」
その瞬間、電話ボックスの灯りがひときわ明るくなった。けれど、通話はまだ続いている。誰かの『交換』が終わる気配は、今夜もない。
風が吹いて、男の部屋のカーテンを揺らした。
遠くで、川田たちの笑い声がまた上がる。
湯上がりの賑やかさと、電話越しの柔らかな声とが、夜の街に溶けていった。
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