ある日常

motsugu

ある会社

 『内通社』で働く彼らは、親しい同僚でもお互いの職業を知らない。同僚なら同業だと思うかもしれないが、それぞれがどこに内通していて、どこが本籍なのか、ということがわからなければ、どこを本職とする内通者であるのかは判断できないのだ。


 そもそもこの内通社というのが初耳であろうから簡単に説明すると、内通者を育成・派遣・管理し、得られた情報を精査・蓄積・整理し運用している会社の名前である。内通とはこっそり敵に通じること、要するに間諜、スパイのことであるから、いきなり会社名で正体をばらすのはどうかということになるのだが、それがこの内通社の一つの特徴で、利用者からすれば魅力となる部分なのであった。

 簡単に説明するために会社という言葉を使ったが、実際は会社というよりはセンターとでも表現すべき場所で、利用者とは派遣受け入れ先と内通者本人に加え、一般人も含まれている。集めた情報を運用する際に情報屋のような活動もしている。大々的に名前を売っているわけではなく、表向きはなんでも屋のように構えていて、社員もほぼスカウトで増やす。


 今日もどこかで彼らは内通し、どこかへ報告を送っている。


 「風呂屋のトイレの窓を開けると、ここの廊下の窓が見えるだろ? そこで俺、天才なこと思いついたんだけど、窓から窓へ飛び移れば、ただで風呂に入れるぞ!」


 「おぉお!」


 「天才だな!」


 「何なら、水道代節約のためにトイレもしに行ってもいいかもしれない」


 「おぉお!!」


 「漏れそうなときは漏れるな!」


 「でもせっかく風呂に入った後トイレを通るのは残念な気がしないか?」


 「暇なときも忍び込んでこまめに掃除しとけばいいんだよ!」


 「おぉおお!!!」


 「な、いい考えだと思わないか?」


 「さっそく行こう!!! わぁあああいっ!」


 この会話は、内通社の社員寮の一室で行われている。川田、山田、土田の三人は、業務を終えた後の日課に備えて、身支度をしていた。


 寮を出てまず向かうのは、風呂屋前の電話ボックス。


 「あいつ、やっぱり居るなあ……」川田が小さく溜息をつく。


 ボックスにはいつも楽しそうな大声で電話をかけている青年がいる。青年とも少年とも見えるし、なんなら少女にも見えるが、青年だ。彼はいつ誰が見てもこのボックスで電話をかけているが、人が近づけば数分で出てきて譲ってくれる。そして人が去れば再び入って電話をかける。


 青年の長電話がなくても、業務終わりの定例報告に使う社員が大勢いるため、この時間の電話ボックスにはいつも行列ができる。


 「数分で済むんだ、我慢我慢」

 土田が呟き、三人は順番待ちをしながら、今日の『風呂屋に窓から侵入作戦』をおさらいする。


 やがて出てきた青年は、黙って風呂屋の前のベンチに座った。電話中の楽しげで饒舌な様子から一転して、表情の抜け落ちた顔で一言も喋らない。

 「そう不機嫌になるなよ。一日中電話してるんだから、休憩時間だと思ってくれ」

 川田が明るく声をかけても、青年は一切反応しない。

 「諦めろ。そいつ、電話相手だけが友だちなんだよ」列に並んだ社員が横から言った。


 報告を終えた三人は寮に戻り、廊下の窓から隣家へと飛び移る。川田の号令で、窓から窓へ、風呂屋への侵入は簡単に成功した。


 「やっぱりこれ、ただで入れるって天才すぎるな!」山田が喜びの声を上げる。


 土田は一緒にノリノリで忍び込んでから、そもそも番台を見たことがないと気づいたが、楽しいので笑っておいた。


 風呂屋に入ると、そこはまるで電車のような混雑。内通社の社員寮の住人たちが一斉に押し寄せ、浴場内は大盛況だ。わちゃわちゃと湯気の中で声が飛び交う。この大混雑を乗り越えるのも日課のひとつだ。


 「よし、漏れずに行動、掃除も忘れず!」

 川田が指示を出し、三人は浴場内のトイレや洗い場をこまめに掃除してから、湯船に浸かって一日の汗を流す。


 「ふぅ、今日も戦ったな……!」山田が満足げに湯船から顔を出す。


 土田は少し疲れた様子でありながら、達成感に浸る。


 風呂屋での日課を終え、三人は再び寮に戻る。

 寝る前、部屋で雑談していると、高沢が落ち込んだ様子で部屋に入ってきた。


 「今日も約束、守れなかった……」


 「おいおい、気にすんなって!」川田がぽんと肩を叩く。


 「大丈夫、俺たちはお前が守ろうとしたこと、知ってるから」土田が優しく言う。


 「そうだ、守れなくてもいいさ、次に活かせばいいんだ」山田が笑顔で加わる。

 三人は励ましながら、部屋に充満する湯気の余韻を思い出すように、今日一日を振り返って笑い合う。


 やがて電気を消し、寝支度を始める。


 しかし、静まりかえった夜の外から、聞き覚えのある声が響いた。


 「あ、俺だけど。俺おれ。いや、だいちゃんじゃなくて俺。わかんないの? なんてね――」



 川田が寝返りを打ちながらぼそりと呟く。


 「……あいつ、まだ電話してんのかよ……」


 夜は、まだ終わらない。

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