第4話 : 学校では他人、家ではゼロ距離
朝の教室は、いつも通りだった。
ざわつきがあって、椅子を引く音がして、誰かの笑い声が混じる。
俺は自分の席に座り、ノートを机の上に置く。
少し離れた場所に、ヒロインの席がある。
目が合う。
一瞬。
俺は軽く会釈して、視線を戻した。
彼女も同じように会釈して、ノートを開く。
それだけ。
会話はない。
呼び方も、苗字のまま。
声をかける必要がない。
昨日まで――いや、今朝までの距離感は、ここにはない。
けれど、それを不自然だと思う感覚もない。
(まあ、学校だしな)
そう考えて、何も疑わなかった。
授業が始まる。
黒板の文字を書き写し、教師の声を聞く。
視界の端に彼女が入っても、特別な意識は向かない。
休み時間。
クラスメイトが話しかけてくる。
「今日の小テスト、やばくない?」
「まあ、範囲は狭いし」
会話は普通。
彼女が同じ空間にいることも、ただのクラスメイトとして処理される。
偶然、グループ作業で同じ班になった。
机を寄せる。距離は、必要な分だけ。
「ここ、俺がまとめる」
「じゃあ、私は計算する」
事務的なやり取り。
私的な話題は出ない。
周囲も、何も気にしていない。
仲が悪いわけじゃない、くらいの認識だろう。
昼休みも別々に過ごす。
彼女は彼女の席で、俺は俺の席で。
放課後。
校舎を出るまで、接点はない。
校門の前で、人の流れがばらける。
周囲の視線が薄れる、その瞬間。
彼女が自然に、俺の横に来た。
声をかけるでもなく、合図もなく。
「帰る?」
「うん」
短い会話。
歩き出す。
切り替えに、意識はない。
家に帰るスイッチが、勝手に入っただけだ。
この境界が、校門だということを、
俺は特に考えもしなかった。
校門を出ると、空気が少し変わった。
人の声はまだあるが、学校の中ほど密ではない。
俺たちは並んで歩き始めた。
どちらが先に、という意識はない。
気づけば同じ歩幅になっている。
「今日、暑かったな」
「昼は少し」
会話が戻る。
戻る、という表現が正しいのか分からないが、学校の中で使っていなかった言葉の種類に切り替わった感じがした。
交差点を渡る。
信号待ちで立ち止まる距離が近い。
それでも、周囲から見ればただの帰宅途中の二人だ。
家までの道は短い。
会話も短い。
「夕飯、どうする?」
「冷蔵庫、何か残ってた」
「じゃあ、それで」
相談というより確認。
決定は早い。
鍵を開ける音。
ドアが開く。
玄関に入った瞬間、切り替わった。
靴を脱ぐ動作が重なる。
荷物を置く位置が、それぞれ決まっている。
俺は壁際、彼女は棚の横。
リビングに入る。
俺が先にソファに座る。
間を空ける、という選択肢はなかった。
彼女はそのまま隣に座る。
肩が触れた。
触れたまま、誰も動かない。
テレビをつける。
音量は、いつもの位置。
「今日の授業、どうだった?」
「普通」
「眠かった?」
「少し」
学校の話をしている。
さっきまで“他人”だった相手と。
距離は近い。
でも、話題は軽い。
夕飯の段取りを話し、買い足すものを思い出し、番組の内容に一瞬だけ反応する。
生活が、完全に戻っている。
この切り替えに、意識はない。
校門を出た時点で、もう終わっていた。
学校では苗字で呼び、
家では呼ばない。
それだけの違い。
それ以上でも、それ以下でもない。
ソファに並んだまま、時間が進む。
誰も距離を調整しない。
ここが家だという事実が、
それを正当化している。
――切り替えが早い、とは思わなかった。
思わなかったから、
この距離は、今日も何事もなく続いた。
テレビの音が、部屋に溶けている。
バラエティの笑い声も、ニュースの落ち着いた声も、背景の一部みたいに流れていく。
俺はソファに座ったまま、リモコンを膝に置いた。
ヒロインは隣に座り、クッションを抱えて画面を見ている。
距離は近い。
肩が触れている。
でも、誰も位置を直さない。
暑いわけでも、寒いわけでもない。
ただ、その距離が一番落ち着く、というだけだ。
番組が切り替わる。
俺は無意識にチャンネルを変え、彼女はそれを止めない。
「それ、続き見たい?」
「どっちでも」
返事は軽い。
意見の押し合いはない。
時間が過ぎる。
ソファの上で、姿勢が少しずつ変わる。
彼女が足を組み替え、その動きに合わせて俺の肩にかかる重さが微妙に変わる。
それでも、離れない。
普通なら、どちらかが一言言う。
「狭い」とか、「近い」とか。
でも、そうはならない。
俺はテーブルの上に置いたスマホを取ろうとして、少しだけ体を動かした。
その瞬間、彼女も同時に動く。
また、距離が保たれる。
ゼロ距離のまま。
夕飯の時間が近づく。
彼女が立ち上がろうとする気配を感じて、俺も腰を浮かせた。
「先、キッチン使う?」
「一緒でいい」
「じゃあ」
それだけで、決まる。
ソファを立つタイミングも同じ。
どちらが先、という意識がない。
キッチンへ向かう途中、自然に並ぶ。
廊下は狭いが、間隔を取ろうとはしない。
さっきまで学校では、数メートルの距離が当たり前だった。
苗字で呼び、必要最低限の会話だけ。
それが、今はこれだ。
切り替えが早すぎる、という感覚はない。
家に入った時点で、こちらが“通常”になっている。
俺は冷蔵庫を開け、彼女は棚からフライパンを出す。
動線が噛み合う。
この距離、この動き、この空気。
どれも、調整された形跡はない。
決めた覚えもない。
話し合った覚えもない。
それでも、成立している。
ソファに戻ると、また隣に座る。
誰も疑問を持たない。
時間が過ぎ、番組が終わる。
画面が暗くなっても、距離は変わらない。
家に帰ってきた、という感覚だけが残る。
落ち着く。
それだけだ。
校門を出た瞬間に切り替わるこの距離が、
いつから当たり前になったのか、
俺はもう覚えていなかった。
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恋人じゃないのに、同棲してるのはおかしいらしい Song @Dntjq213
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