第3話 : 同棲ルール(未定義)

 夜。

 リビングの照明は半分だけ点いている。


 俺はソファでノートを広げ、ヒロインはテーブルでスマホを見ている。別々のことをしているが、同じ空間だ。テレビはついていない。音は、時計の秒針くらいしかない。


 沈黙は長い。

 けれど、気まずくはない。


 俺はノートを一枚めくり、何となくペンを転がした。転がったペンが止まった先で、視線だけがヒロインに向く。彼女は気づかない。気づく必要がない距離だからだ。


「そういえばさ」


 俺が言う。


「同棲って、最初にルール決めるらしいな」


 完全に雑談のトーン。

 問題提起でも、確認でもない。


 ヒロインはスマホから目を上げない。


「らしいわね」


「テレビでやってた」


「へえ」


 それだけで話題が終わってもおかしくない。

 でも、俺はノートを閉じなかった。


「一応さ。決めとく?」


 言ってから、少し間が空く。

 彼女はようやくスマホを置き、俺の手元を見る。


 ノートは白紙。

 ペンも、まだ何も書いていない。


「何を?」


「……同棲の、ルール」


 言葉にした瞬間、変な感じがした。

 ルール、という単語だけが浮いている。


 普通なら、ここで色々出てくるはずだ。

 異性を家に入れるとか、私物の扱いとか、距離感とか。

 でも、俺の頭は静かだった。


 書くことが、思いつかない。


 ヒロインは少し考えるように天井を見て、それから首を横に振った。


「特に、ないわ」


 即答。

 迷いも間もない。


「……禁止事項とかも?」


「ない」


 短い。

 でも、断定的だ。


 俺はノートを見下ろす。

 白紙のまま。


 困惑はない。

 不思議な静けさだけがある。


 決める必要が浮かばない、という状態が、

 こんなにも自然に存在していることに、

 まだ俺は気づいていなかった。


 ノートは白紙のまま、テーブルの上に置かれている。

 ペン先だけが、光を反射していた。


 俺は椅子を少し引き寄せ、ノートに向き直る。

 書こうと思えば、書けるはずだ。

 ルール、という単語の下に、箇条書きで。


 ……だが、最初の一行が浮かばない。


「一応さ」


 俺はペンを持ち上げながら言った。


「一般的には、あるだろ。禁止事項とか」


 ヒロインは腕を組み、少しだけ考える仕草をした。

 考えているように見えるが、実際は違う。

 “思い出している”に近い。


「ないわ」


 結論は変わらない。


「たとえば?」


 俺は具体例を出してみることにした。

 例があれば、話は進む。


「……異性を家に入れる、とか」


「問題ない」


 即答。

 理由を聞く前に、結論が出る。


「連絡なしの外泊は?」


「支障がなければ」


「部屋に勝手に入るのは」


「必要があれば」


 全部、止まらない。

 否定が入らない。


 俺はペンを持ったまま、空中で止めた。

 書くべき“×”が、どこにもない。


「……普通、そこは嫌がるんじゃないか?」


 責めるつもりはない。

 本気の疑問だ。


 ヒロインは、少しだけ首を傾げた。


「信頼できない前提でルールを作るのは、非効率でしょ」


 淡々とした声。

 感情は乗っていない。


「問題が起きてから対処すればいい」


「起きていない問題に、時間を使う必要はない」


 合理。

 完全に、合理。


 俺は反論を探す。

 探すが、見つからない。


 確かに、現時点で困っていることはない。

 不満も、不安も、具体的には存在しない。


 それなのに、

 「ルールがない」という事実だけが、

 妙に目立つ。


「……距離のルールとかは?」


 俺は最後に、それを聞いた。

 曖昧で、でも一番ありがちなやつ。


 ヒロインは少しだけ考えてから、言った。


「距離は、必要な分だけ近づく」


「遠い方がいい理由があるなら、遠くなる」


「今は、そうじゃない」


 俺は、ノートを見下ろす。

 やっぱり、白紙だ。


 禁止事項ゼロ。

 注意事項ゼロ。


 ルールを作る前提が、そもそも成立していない。


 ヒロインは俺の手元を一瞥し、言った。


「書けないなら、それでいい」


「無理に決める必要はないわ」


 その言葉に、俺は頷いてしまった。

 納得してしまった。


 不思議なことに、

 不安は一切なかった。


 自由なのに、安定している。

 決めていないのに、成立している。


 その矛盾に、

 俺はまだ名前をつけていない。


 ノートは、最後まで白紙のままだった。

 ペンはテーブルの端に置かれ、転がりもしない。


 ヒロインはソファに戻り、俺は椅子に座ったまま、ノートを閉じる。閉じる音は小さい。何かを決めなかったことを、強調するような音ではない。


「まあ……必要になったら、決めるか」


 俺が言う。

 軽い。軽すぎるくらいだ。


「そうね」


 ヒロインは短く返した。

 否定も、補足もない。


 そのまま時間が流れる。

 テレビはつけない。

 彼女はスマホを見て、俺は机の上を片づける。


 互いの行動を、特に気にしていない。

 でも、同じ空間にいることは分かっている。


 時計を見ると、もう遅い時間だった。

 夜は深くなっているが、空気は落ち着いたままだ。


「先、シャワー使う?」


 彼女が聞く。


「どうぞ」


「じゃあ」


 それだけで順番が決まる。

 ルールはない。

 でも、混乱もしない。


 ヒロインが立ち上がり、部屋を出る。

 ドアの向こうで足音が遠ざかる。


 俺はノートをもう一度開いてみる。

 白紙。

 最初から最後まで、何も書かれていない。


 普通なら、不安になるはずだ。

 決め事がない同棲なんて、危なっかしい。

 どこかで衝突する。

 どこかで問題が出る。


 ――でも、今は何もない。


 何も決めていないのに、

 何も困っていない。


 ノートを閉じ、電気を消す。

 リビングは暗くなる。


 それぞれの部屋に戻る。

 扉が閉まる音が、二つ。


 距離は保たれている。

 でも、遠くはない。


 ルールは未定義のまま。

 禁止事項も、注意事項もない。


 それでも、

 この同棲は、何の問題もなく成立していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る