第2話 : 朝と夜の動線が完全一致

 目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

 昨日と同じ――と言い切るのは癪だけど、感覚が近すぎる。


 正確には、鳴る直前の「音のない数秒」。

 部屋がまだ眠っているのに、意識だけが先に起きて、身体が遅れてついてくる。天井を見上げたまま、息を吸って、吐く。やけに落ち着いてしまうのが腹立つ。


 スマホを手に取る。

 六時五十八分。


(……いや、たまたま。うん、たまたま)


 二日続いたくらいで何を騒ぐ。人間の生活には波がある。体内時計が冴える日もある。ある、はず。

 そう自分に言い聞かせながら起き上がると、視界の端で「いつもの違和感」が待っていた。


 隣のスペースが、空いている。


 布団は乱れていない。誰かが静かに出ていった痕だけが、妙に整った形で残っている。

 昨日も、こうだった。……いや、昨日だけだ。昨日だけのはずだ。二回目だからって「いつも」扱いするのは早い。


(偶然。偶然だって。偶然って言葉、便利)


 廊下に出る。

 家の中は静かだ。でも無音じゃない。冷蔵庫の低い唸り、どこかの換気の気配、水が流れた名残みたいな空気。生活が、すでに前へ進んでいる。


 キッチンの明かりは、もう点いていた。


(……うん、まあ、点いてるよね。点いてるわな)


 納得してしまった瞬間、心のどこかが小さく「危険」と告げる。

 この“当たり前”が増えるほど、言い訳が薄くなる。


 それでも足は止まらない。

 止める理由がないからだ。止めたところで、朝は勝手に進む。


 キッチンに近づくにつれて、冷蔵庫の開閉音がはっきりする。

 そして――


「……牛乳、まだ少ない」


 聞き覚えのある温度の声が、昨日とほとんど同じタイミングで落ちてきた。


 俺はまだ姿を見せていないのに、返事を用意できてしまう。

 それが一番おかしい。


 言い訳を探す前に、扉の向こうから朝がこちらを呼んでいる。

 俺は何も考えないふりをして、キッチンへ足を踏み入れた。


キッチンは、昨日と同じ形をしていた。

 広さの話じゃない。配置と、順番と、空気の流れが同じだ。


 彼女は冷蔵庫の前。

 俺はシンク側。


 立ち位置まで再現されていることに気づいて、視線を逸らす。

 気づいた時点で、たぶん一段階進んでいる。何が、とは言えないけど。


「牛乳、まだ足りない」


 昨日は「少ない」だった。

 今日は「足りない」。

 言い回しは違うのに、意味は同じで、結論も同じ。


「今日はいい」


「うん」


 買わない理由は出ない。

 出なくても会話は終わる。


 彼女はコンロ側へ移動する。

 俺は自然に一歩引く。


 ぶつからない。

 避けているわけでもない。


(……これ、意識してないのが一番まずい)


 トースターが鳴るまでの間。

 皿を取り出す順番。

 ジャムを出すかどうかの判断。


 全部、昨日とズレていない。


 マグカップが二つ並ぶ。

 並べたのが誰かは分からない。

 でも、そこに二つあることだけは確かだ。


 彼女が俺のマグカップを取る。

 砂糖は入らない。


 俺は何も言わない。

 言わないことが、もう一つの返事になっている。


 彼女は時計を見る。

 昨日と同じ角度で。


「今日は、七時三十五分」


 疑問形じゃない。

 提案でもない。


「……了解」


 返事をしてから、少し遅れて気づく。

 俺の予定を、俺より正確に把握している。


「部活、今日は?」


「ない」


「じゃあ、帰りは」


 言いかけて、彼女は一拍だけ止まる。


「……遅くならない」


 断定に近い言い方だった。

 未来の話なのに、事実みたいに扱う。


 トーストが焼ける音がする。

 昨日とほぼ同じタイミング。


 皿に置かれる。二枚。

 ジャムは片方だけ。


 俺は、迷わず自分の皿を取る。


(迷わないな……)


 否定しない。

 否定しないほうが、朝はスムーズに進む。


「ゴミ出し、私」


「了解」


 短い。

 それだけで役割分担が完了する。


 誰が決めたわけでもない。

 でも、決まっている。


 彼女が流しで手を洗っている間に、

 俺はマグカップを片づける。


 置く位置も、昨日と同じだった。


 視線が一瞬だけ交差する。

 言葉は出ない。


 必要ない、という空気だけがある。


 時計を見る。

 七時二十五分。


 あと十分。


「……そろそろ」


 彼女が言う。


 昨日と同じ言葉。

 同じタイミング。


 俺は最後の一口をかじりながら思う。

 ここまで同じなら――


 その続きを、確かめる時間は、

 今日の夜に残されている。


夜になって、家に戻った。


 鍵を回す音は小さく、玄関に吸い込まれる。

 明かりは点いていた。必要な分だけ。朝と同じだ。


 靴を脱ぐ。

 右足から。

 置く位置も、朝と変わらない。


(……気のせい、だよな)


 そう思おうとしたところで、奥から生活音が聞こえた。

 水の音。

 コンロの気配。


 彼女は、すでにキッチンにいた。

 立ち位置も、朝と同じ。冷蔵庫側。


 目が合う。

 ほんの一瞬。


「遅くない」


 それだけ言って、彼女は視線を戻す。

 「おかえり」はない。

 でも、帰宅が想定内だったことは分かる。


「うん」


 俺も、それだけ返す。

 「ただいま」は言わない。


 それで会話は成立してしまう。


 カバンを置く。

 朝、弁当箱を置いたのと同じ棚。


 考えるより先に、体が動いた。

 キッチンへ向かい、彼女の横を通る。


 距離が近い。

 朝と同じくらい。


 ぶつからない。

 避けてもいない。


 彼女がフライパンを動かし、

 俺が冷蔵庫を開ける。


 同時に使わない。

 動線が重ならない。


(……一致しすぎだろ)


「夕飯、軽め」


 彼女が言う。


「了解」


 理由は聞かない。

 聞かなくても成立する。


 マグカップを二つ出す。

 並べる。向きも、朝と同じ。


 彼女が俺の方を取る。

 中身を注ぐ。

 砂糖は入らない。


 俺は、何も言わない。


 言わないことが、夜でも機能する。


「風呂、先」


「どうぞ」


 短い会話で、順番が決まる。


 皿が出てくる。二枚。

 どちらを取るか、やはり迷わない。


 食事は無言だった。

 気まずさはない。生活の音だけがある。


 風呂場から水音が聞こえる。

 時間配分まで、朝のシャワーと近い。


 彼女が戻ってきて、

 俺が席を立つ。


 すれ違う距離も、朝と同じ。


「次、どうぞ」


「うん」


 それだけ。


 風呂を終えて戻ると、彼女はソファに座っていた。

 俺は、少し離れた位置に座る。


 距離も、朝の食卓と同じ。


 テレビはついていない。

 スマホも見ていない。


 沈黙は、普通に成立している。


(……おかしい)


 そう思いかけて、やめる。

 言語化した瞬間、この形が崩れそうだった。


 彼女が立ち上がる。


「明日も」


 それだけ言って、部屋に戻る。


 「何が」とは聞かない。

 聞かなくても、分かってしまう。


 俺も立ち上がり、同じように部屋へ向かう。

 電気を消す音が、朝と似ていた。


 布団に入る。

 隣は、やはり空いている。


 今日一日を振り返って、

 朝と夜の区別が、あまりつかなかった。


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